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のんびりと信じていよう

 夢を見ている。ただ、現実も同時に見ている。
 わりと幼いころから、叶えたいこと、いわゆる『願い事』があるときには、それを紙に書いて分かりやすくしたり、自分ではない何者か、神や仏などに強く祈ってみたり、大きく声に出してみたり、ということをやってきたような気がする。たとえば七夕の時に書く短冊など。

 それらが特別悪いということでなく、目標設定、決意表明、あるいはそういう目標をついつい忘れがちになってしまう自分への戒め、などには非常に効果的だと思う。しかし、あんまりしょっちゅう強く祈るとか強く願うとか、そうしていると口に出すとかやっている、というのは、かえってそうしていないと信じている気になれない=心のどこかで叶わないと思ってしまっている、のではないか、と、ふと思ったりなどした。

 一日の終わり、眠る間際になって『寝ている間に徐々に空気が無くなって、明日の朝には息ができなくなっているかもしれない』と、考える人は多分いないだろう。『明日も一日分の酸素があると信じています』と宣言する人も。
 理想の形の未来を願い、それが必ずやってくると信じる、というのは、実は『信じている』という態度を強調するばかりでなく、その願い、もたらされるはずの結果に『いかなる時も疑念・疑問を一切挟まない』という気の持ちよう、心の在り方ではないかなあ、と、考えてみたりもした。

 結局のところ、理想や未来を描くのに信仰すべきは神や仏より先に自分自身だ。自分のココロのウチューってやつにしっかり乗っかって、着実に今を積み上げていかないとなあ、と気持ちを新たにしてみる今日このごろ。

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