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袖すり合うも多生のエンジョイ

 年が過ぎた。最初にnoteに登録した日から、現在に至るまでの期間だ。最初こそ意気込んで始めたものの、やはり数字がついてこないのはつらい。それが全てではないと分かっていてもだ。何とかかんとか毎日続けていたものがだんだん途切れるようになり、一週間空き一か月空き、やがて数カ月に一度の更新になっていく。毎日それなりに忙しいし、そうそうブログ的な作業を進める余力もないよね、なんて言いながら。最初は確かに夢も目標もあったはずだのに。
 私はたまたま拾われたおかげでどうにかこうにかちゃんとした再開に漕ぎ着けられたものの、そうでない――記事の更新頻度が落ちていき、ついには年単位でストップしている、実質的な引退に近いような――人もやはり、それなりに多く見受けられる。

 然としたイメージが仄かな実感に変わってきたのはここ2,3日でのことだ。自分が以前フォローした人たちが、現在はどんな活動をしているのだろう、そう思い、後ろから順に眺めていったのがきっかけだった。ちょくちょく、ときどき、たまに……といった具合に、頻度こそ多くなくとも続いている人ももちろんいる。だがしかし、最後の記事が2年前3年前、という人も、少ないとは言い難い。noteだけならまだしも、人によっては外部ブログの更新も旧ツイッターのアカウントも無くなり、ユーザー名の後半に記されたセルフ肩書きや目標だけが置き去りにされている……。
 本当に目標を達成し、別の舞台で活躍していて『自分の思い描いていた、理想の忙しさ』によって記事を書くヒマもなく、というのなら喜ばしいこととに違いない。けれど実際のところはあまり変わり映えしない、いつも通りの忙しさに流されてしまった人のほうが多いんじゃないか、と思う。何とももったいない話だ。その人の感性で表される言葉は、その人でなければ紡げない。

 信の方法もずいぶん多様化した現在、より伝わりやすい絵や動画、音声ではなく、どちらかといえば文章が主体のnoteを使って『記事』を作成する、なんて手間をかけるくらいなのだから、伝えたい・届けたい思いのひとつやふたつはある、あったはず。いつだって諦めるには早すぎるし、やり直すには遅くなどない。
 日々は確かに忙しい。ただその忙しさの中にあってでも、ツールの力を借りながらでもこうして自分の力で何かを生み出している瞬間、というのは楽しいものではないだろうか。そして、同じような目標を持って進もうとしている人たちも、ちゃんとたくさんいる。袖すり合うも他生の縁、お互いにわずかずつでもいい影響を与え合っていければ、それはより有意義な瞬間になっていくんじゃないかと、ぼんやりと思っている。

 度かお伝えしている通り、私自身の目標は昔も今も変わらない。まずは名前を知ってもらうところから――地道な歩みでも、誰かと楽しみながら進んでいくことに、何も悪いところはないよね。

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