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それから

 春の穏やかな風に頬をなでられて、私は目を覚ました。
 病室の白いカーテンがふわりとなびいて、私はそれにつられるように大きなあくびをする。昼下がり、窓際で過ごすひとときは眠気を抑えているほうが難しい。
「こら、ミク。また勝手に病室に入ってきたな」
 続けて伸びをする私を、部屋の主がとがめた。
 ベッドの上で、ひとりの少年が私に視線を注いでいる。だがしかしその声はとても優しく、そして――力がない。
「誰かに見つかったら大変だよ。せめてパパと一緒じゃなきゃ」
 少年はベッドに体を横たえたまま、いかにも困っているといった風なポーズをとって見せた。私は私で話ができないし、いつも通りに素知らぬふりをして、少しの間をおいてから少年と瞳を合わせた。
「うれしいけどね」
 少年の困り顔が真意でないことくらい、十分にわかっている。
 それがわかる程度には、私たちは長い付き合いなのだ。

 彼の名は勇希といった。苗字は知らない。彼のことは私が来たときには周りの誰もが名前で呼んでいた。勇希は生まれてすぐに難しい病気にかかってしまったらしくて、人生の大半をこの病室で過ごしている。
 私が彼と出会ったのは彼が五歳のときだった。滅多なことでは病院から出られない子供の成育を憂えた彼の父親が、私を勇希の友達代わりとして家に置いてくれたのだ。たまの一時帰宅のときには、遊び相手になれるようにと。
 そのとき私も五歳。あまり可愛げはなかったし話ができないのはその頃から同じだったが、勇希はすぐに心を開いてくれた。童心の無邪気さがそうさせたのかもしれなかった。
 普段は彼の父親と暮らし、ときおり帰ってきた勇希と遊ぶ、そんな生活が始まった。私を見ると勇希の顔はぱっと明るくなり、私もそれがなんとなく嬉しかった。
 ああ、この子は私を必要としてくれているのだと。

 私は私で、勇希に出会う前はずっと施設暮らしだった。不自由こそなかったといえ、窮屈さに身悶えしていたのを覚えている。その点、勇希の父親は放任主義で、口やかましく叱られることもなければ無理に自宅に閉じ込められることもなかった。
 それでも最初はおとなしくしていた。けれども、勇希に会う回数が増えていくごとに、彼のことが気にかかるようになっていった。
 籠の鳥。それまでの自分の状況と、勇希の状況とが重なって見えたのだ。私は晴れて自由になった。でも彼はいつ自由を手にできるかわからない。
 気がつくと体が動いていた。無理に閉じ込められないとはいえ、家主がいなくなるときには戸締りがされる。私は素早く手近な窓をすり抜けて、勇希のいる病院へと向かった。何度か送り迎えの車に同乗したから道に迷うこともない。幸いなことに病室は二階、忍び込むのにさほど労力はいらなかった。風に揺れるカーテンを目印に、やはり窓から身を滑り込ませた。
「ミク!」
 私が初めて単身で勇希のもとを訪れた時の彼の驚きよう、それに喜びようはこれ以上なかった。私だって誰かに喜ばれて悪い気はしなかったし、ただそれだけのことで良いならと、暇を見つけては勇希と一緒に過ごすようになった。もちろん、彼の父親が仕事を終えるころには帰宅するようにして。
 そんな生活が続いて、十年。どちらももう十五歳である。

「どうしたんだい、ミク。今日はまた、ずいぶんおとなしいじゃないか」
 ……おっといけない。昔を思い出しながら、ついぼんやりとしていたようだ。勇希が神妙な顔つきで、今度はどうも真剣に私を心配しているらしかったので、私は窓のそばを離れてベッドの隅に陣取ることにした。
「ミクは優しいね。ミクがいなかったら、僕はさみしくて毎日泣いていたかもしれない」
 勇希の手が私に触れた。その手も昔と比べるとずいぶん大きくなっている。彼はすっかり大人びた。
 しかし、一時帰宅以外で病院を離れることは、やはりない。
 治る見込みが全くないわけではない。が、いつになるかはわからない――というのが、勇希の病気について私が知る全てだった。彼の父親や医者が話しているのが時々聞こえてくる程度のものだ。ただ、知ってしまうと私までふさぎ込んでしまいそうで――このまま、知らないままの方がいいのかもしれない。
 私自身、ここ最近は体がだるい。足取りも重い。不意に過去に思いを馳せてしまったのも、歳をとったせいだろうか。
「僕は、ずっとここにいるんだろうか」
 誰に話すともなく、勇希がつぶやく。
 あきらめ。彼の一挙手一投足、一言一句にそれがまとわりついている。生きていくことに、未来に希望が持てないといった様子だ。彼のここまでの人生を考えると、無理もない。
「ずっと一緒にいような、ミク」
 勇希は私に笑顔を作って見せたが、その目からは今にも涙が零れそうだ。
 彼も分かっているのだろう。
 それは、かなわぬ願いなのだ。

 私の体は日ごとに鈍く重くなっていく。平気なふりをしていても、いつかは勇希に気づかれることだろう。私は、覚悟を決めた。
 とある日の夕方。いつもと同じに忍び込んだ病室から、もうそろそろ帰宅の途につく時間帯だ。いつもなら、来た時と同じく素知らぬ顔で、視線だけを交わして退散する。けれども。
「にゃあああお」
 私は読書にふける勇希に近づき、一声、ひときわ大きな声で鳴いた。出入り口のドアをつきぬけて、廊下にまで聞こえたかもしれない。病室では静かにするものだと知ってから、これほど大きく鳴いたのは初めてだ。
「ミク?」
 勇希もいつもと違う雰囲気を感じ取ったようだ。飽きるほど見慣れたベッドの上、上体を起こした姿勢そのままに、私に向かって手を伸ばす。彼の指先が私の白い体毛をひと撫でし、なおも触れようとするその手を振り切るように、私は身を退いた。
 あまり時間をかけると決心まで鈍る。私はそのまま窓の外へ身を投げ出し、振り向かずに歩いた。歩きながら耳をそばだてていたが、勇希が取り乱した様子はなかった――まだ。
 猫特有の気まぐれだと思ってもらえればそれでいい。その方が、悲しくならないから。
 あの家に帰るつもりはない。どこか遠くへ行きたかった。勇希の父親や病院の関係者はもちろんのこと、できる限り誰の目にも触れない場所。
 人ほどの距離は歩けない。しかし人ほど大きな体でもない。どこか、この身が静かに終われる場所。
 こうしてそれを探し歩く中ででも、どんどん体力が失われていくのがわかった。勇希を不安がらせないようにと気を張っていたから、自分でも衰えの度合いを見誤っていたらしい。
 この身が動かなくなる前に彼の前から姿を消せた。せめてそれだけでも、よしとしよう……。

 父親は仕事で忙しい。母親は、写真でしか見たことがない。
 一人ぼっちで過ごす時間が長い勇希は、私に生きる希望を見ていた。無二の友として、一緒に成長してきた。私が体調を崩せば涙を流して悲しみ、回復すればまた涙を流して喜んだ。彼は繊細なのだ。
 孤独はこわい。獣にあるまじき考えかもしれないが、勇希と過ごした十年が、私にそんな思いを抱かせた。最期の瞬間を誰かに――勇希に看取ってもらえたなら、一個の畜生にとっては有り余る幸せだといえる。
 けれども、私は余計な幸せを望んではいけない。
 想像するまでもない。私が勇希の前で息を引き取る、それがどんなに残酷なことか。
 彼はきっと泣くだろう。塞ぎ込むだろう。これまで辛うじて保っていた生気を、瞬く間に失ってしまうかもしれない。病気が治るかもしれない『いつか』を『いつまでも』待ち続けているのは苦しい。
 いっそ自分も、などと言い出しかねないのだ。
 勇希には少しでも長く生きてもらいたい。いつかのその日はすぐ近くまで来ているのだと、私は最後まで信じていたい。
 私の死を、勇希に悟られてはいけない。
 だから旅に出た。死に場所を探す、あてもない旅へ。

 目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。
 どうやら、知らずのうちに眠ってしまっていた……というより、気絶していたという方が正しいか。空腹と疲労の末に、倒れたらしい。
 どのくらい歩き、どれだけ倒れていたか、もうわからない。ただ周りの風景はさほど様変わりしたようには見えず、勢い込んで病室を出てきた割にそう遠くへ来ている様子はなかった。
 格好をつけてみたところで、老いた小獣の体ではこれが限界か。
 それでも、と足を動かすと、少しばかり開けた場所が目に飛び込んだ。何か文字の書かれた板が立てられていたが、きっと猫には関係なかろう。そこは私が伏すには十分すぎる広さがあって、草も適度に茂っていた。身を隠すにも丁度いい。
 私はさっそく適当な草陰に寝そべった。あとは迎えを待つばかりだ。
 考えるだけの余力もなく、からっぽになった頭でぼんやりと最期を迎える――死とはそういうものだろうと、私は思っていた。
 けれども。
 前にもこうして、体を丸めて息をひそめたことがあったっけ。ずいぶん昔……そう、私が病室に忍び込むようになって間もない頃だ。一度、人間に見つかりそうになったことがあった。「早く隠れて」勇希はそう言って掛け布団をめくり、私を匿ってくれた。まだどちらも小さくて、一人と一匹による初めての秘密の共有にドキドキしたのを覚えている。その勇希の笑顔は今よりずっと明るかった……。
 午睡している勇希に体をつけて、一緒に眠ったこともあった。読書のときには膝に乗っかって、中身をのぞき込んだりもした――絵本から、難しい字ばかりのものまで。病院食をひと舐めして、あまりの味気無さに顔を見合わせたことも。
 振り向かないと覚悟してきたはずなのに、次々に思い出がよみがえる。水が湧くように、今まで忘れていたことまでも。
 過去のどこを思い出しても、勇希はいつも私に笑顔を向けていた。
 私は、彼にとっての無二の友だ。決して自惚れではない。時間がそれを示してくれる。
 でも私にとっても、彼は初めてできた、かけがえのない友人だったのだ。相手に救われていたのは、彼だけではなかった。
 私は不意に、ひどい孤独に襲われた。久しく忘れていた感覚だ。
 傍らに誰もいないのがここまで苦しかったことが、恐ろしかったことがあっただろうか。
 勇希を悲しませたくないのは本当だ。だから離れた。でも――でも、私は心のどこかで。
 ――もう遅いか。今さらだ。くたびれた猫の足では引き返すのは無理なのだ。私の最後の、いちばんのわがままは達せられないまま終わるだろう。
 こんなに悲しいと思ったことが、今までにあったろうか。

 朝の陽ざしが眩しい。どうやら私はまだ生きているらしかった。
 夜更けに走馬燈じみた思い出をかみしめて、結局また眠ったようだ。重いまぶたを渋々持ち上げると、何だか見慣れないものが目に映った。
 少し太めで棒状で、かつところどころに折れのある数本の――私の知る中でこれにもっとも近いのは、人間の腕と脚だ。勇希のを何度か見たことがある。が、勇希が外に出てくるはずはないし、ここには他の人間だっていなかったはずだ。それとも、私を知る何者かが、私を探しに来たのだろうか。
 一体どうしたことかと身を起こすと、頭がやけに高い位置で止まった。なんだか地面が遠くなった気がする。空き地の中を動けど動けど、周りには目立つものはなく、かわりに、人間の腕と脚がどこまでも私についてくる。私が何かに触れるたび、これまでにない不思議な感触がする。
 これは……まさか。
「人間に、なっている?」
 思わず発した声に、私自身が驚嘆した。そんな馬鹿な。
 腕を振り上げ顔を撫で、二本足で立ちあがって。こうなるといよいよ信じないわけにもいかない。私は今、人間の姿をしている。
 駆け出した。道路を裸足のまま走り、ビルの群れを抜ける。行先はひとつだけだ。
 ショーウインドウにかすかに映った自分は若い人間の雌の形をしていて、頭頂から肩のあたりまで髪が伸び、もとの私の毛並みと同じ白色の着物を着ていた。人に会うにはあまりにみすぼらしいが、それを気にする時間はない。
 体は不気味なほど軽い。理由は自然と悟られた。時間をかけてじわじわと浪費されていくはずだった残りの命が、この一瞬に凝縮されている。この白の着物は死装束に他ならない。
 病院にはすぐに着いた。老猫が命がけで進んだ距離を数十分で引き返してしまうのだからこの体さまさまだ。私はまっすぐに勇希のいる病室を目指した。誰にもとがめられなかったのは僥倖だ。その日、私は初めて自力で病室のドアを開けた。
 幾度となく身をくぐらせた窓があった。
 風に揺れるカーテンがあった。
 見慣れたベッドがあった。
 彼が、いた。
「勇希」
 声が漏れた。止めることはできなかった。
「あなたは?」
 勇希は私を訝しげに注視する。彼からすればノックもなしに入ってきた見ず知らずの他人だ。敵意を向けられるのは仕方がない。少し辛いけれど。
 問いに答えることはできる。ただ、正体を告げたところで――私が猫のミクだと言ったところで、やすやすと信じてはもらえまい。私はあえて勇希の言葉を無視し、彼に歩み寄った。
「泣いていたの?」
 勇希の目は赤みを帯びていた。もともとの痩身が、より細く小さく見える。このまま小さくなって、消えてしまいそうなくらいに。
「友達が、いなくなったんだ」
「あなたの友達は――」
 私だ、と言ってしまいたい。信じられなくてもいい、この手で勇希を抱きしめられたなら、どれほど嬉しいだろう。どれほど……。
「――あなたのこと、ずっと見守っているわ」
 私はこれから死ななければならず、彼はこれから生きなければならない。別れを引きずったままでは、前へ進めない――お互いに。
「あなたに生きてほしいと願っている。心から」
 さあ、そろそろ時間切れだ。死に様を彼に見せるわけにはいかない。私が旅に出た意味を、私が失くしてしまっては。
 私は廊下へ出ようとして、ふと、ドアの前で立ち止まった。
 ……そういえば。
 少しの間をおいて、肩越しに彼の方を振り返る。
 別れ際、いつもこうしていたっけ。言葉の交わせない私たちの、ちょっとした意思疎通。
 私は勇希を見つめ、勇希は私を見つめた。
 目と目が合う、永遠にも似た一瞬。
「――ミク?」
 彼に名前を呼ばれ、私の顔は自然とほころぶ。
 もう、言葉はいらないね。

 病室を出てドアを閉めたところで、全身から力が抜けていく。本当の旅立ちのときだ。
 さっきの私は、ちゃんと笑えていただろうか?



 それから、五年が過ぎた。また芽生えの季節がやってきて、勇希は二十歳を迎えていた。
「……そうしたら、病室のすぐ外に猫が倒れていたんだ。そのとき既に息を引き取った後だった」
 自宅からそう遠くないとある公園に、彼の姿があった。彼はベンチに腰掛け、傍らの女性に自身が体験した不思議な出来事を話して聞かせていた。
「不思議だね。猫が人間の姿になって、会いに来るなんて」
「最後まで心配をかけてしまったんだろうな。僕は泣き虫だったから……でも、おかげで今こうして生きている。どれだけ感謝しても足りないよ」
 病気を治療する準備がととのったのは、あの出来事から少し後のことだった。希望はすぐ近くまで来ていたのだ。今、勇希は病室を離れ、十五年の遅れを少しずつ取り戻しているところだった。
「どんな猫だったの?」
「白猫。おとなしくて、優しいやつだった。毛並みがきれいで――白が似合うところは、君と同じかな」
 彼女とは病院で知り合い、歳が同じこともあって打ち解けるまでに時間はかからなかった。勇希が退院してからも、こうして交際が続いている。
「ふふ。今日の私とお揃いね」
 それだけじゃない、と言いかけて、勇希は口にするのをやめた。重なるところは多くあれど、彼女は彼女だ。全て偶然かもしれないし、そうでなければ、かつての友がもうひとつ、奇跡をプレゼントしてくれたのかもしれない。どちらであれ、大切な人が隣で笑っているのに変わりはないのだ。
 ひと通り話し終えると、勇希は彼女の手を引いて立ち上がった。
「次はどこへ行こうか、美久」
 白いワンピースが、春の風に揺れた。

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