リアルはSNSをはるかに凌駕する
生まれてはじめて、ライブバーというところに足を踏み入れた。
ちいさなバーカウンターの横にはこじんまりとしたステージ、その正面にはコの字型にベンチが並んだ木のテーブルが置いてある。
緊張のあまり、いっそ消えてしまいたいような気持ちで髪の毛や洋服をいじりながら、そわそわと視線を泳がせた。はじめての場所は苦手だ。
知っている人や知らない人たちが、アコースティックギターを携えて次々と唄う。
すごかった。楽曲や声の良さもさることながら、こんなにも臆することなく前面に自分を押し出せるということが。自分のつくった言葉とメロディーを、観客に向けてリアルタイムで発信している人たちの姿に、ただただ圧倒されてしまう。
歌には言葉以外の要素がたくさんあってずるい、などと詮のないことをふと思う。極端な話、歌詞がどれほど薄っぺらくとも、印象的なメロディーラインや歌のうまさがあれば、いくらでも人を惹きつけることができるからだ。
しかし言葉は、そのもの一本で勝負するより他にない。とんでもないものに魅せられてしまった。そう思うと同時に、たったそれだけで人の心を動かせるのだという事実に、改めて奮い立たされる。
正直、自分の書いたものを人に見せるのは、今でも死ぬほど恥ずかしい。
大好きな漫画の登場人物が、創作者のことを「裸になって歩くような気持ち」でつくっている人、と言っていた。ほんとうにそうだ。電波を通じて読まれることですらそうなのに、目の前でそれをされるとなると、いつも心臓は極限まで張りつめる。
しかし、誰かに自分を見せることを、誰かに自分で魅せることを、恥ずかしがっていては何もはじまらない。邪推されたくない、茶化されたくないし馬鹿にされたくないと勿論思うが、わたしにできることといえばつくった作品を見てくださいと言い回る、そこまでなのである。
一度自分の手を離れた作品に対して、こう感じてくれと相手に押し付けようなんて考えは傲慢だ。こいつはイタい。相当重い。そう思われてからがきっと勝負なのだ。
さわさわと優しく耳元を流れていく数々の賞賛を、心からうれしいものだと思う。でも、だからといってそれ以外の評価をおそれ、自分をセーブするようなことは、決してあってはならないのだ。
全力で自分を魅せようともがく人々は美しい。
そのことを忘れずにいようと思う。せいぜい無様にもがいてみせる。
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