無駄な気がした毎日も最高だった
引っ越しが、こんなにも寂しいものだとは思わなかった。
明日わたしは、この部屋を出る。
大学入学と同時に住み始めたこのアパート。
3年間ひとりで暮らしたこの部屋は、六畳ひとまにキッチン、ロフト付き。
いかにも京都らしく、うなぎの寝床スタイルの細長い建物。
外観の、きいろい壁がかわいくて好きだった。
大学生だから、転校して友達から離れるとかはもちろんないし、むしろ久々の実家暮らしを楽しみにしているところは大いにある。
なのに、この寂しさったらなんだろう。
物心ついた頃から高校卒業まで、ずっと同じ場所で暮らしていたわたしは、引っ越しや転校といったものにこれまでほとんど縁がなかった。
大学進学が決まり、家を出てひとり暮らしを始めてからも、実家は帰る場所として同じところに在り続けている。
そのため、家が2つあるような感覚で、わたしは3年間過ごしていた。
でも、このアパートのこの部屋には、もう二度と戻ってこられない。
その当たり前で単純な事実を、わたしはなかなか受け入れることができなかった。
転勤族で引っ越しに慣れていたり、部屋に愛着がなかったりしたら、きっとそんなことはないのだろう。
しかし、わたしはそのどちらでもなかったのだ。
別れた恋人にいつまでも拘泥するのは、引っ越した部屋に執着するのと同じだと、かつてどこかで耳にしたことがある。
もう自分の所有物ではないのに、いつまでも「あのときはあたしのものだったのに!」と言い続けるのと一緒。それはみっともない、というのである。
今のわたしは、まさにその逆バージョンだ。
3年間もわたしが暮らしたこの部屋に、別の誰かが住むっていうの?
わたしが毎日寝起きして、ごはんをたべて笑って泣いて、恋人と密に時間を過ごしたこの部屋に?
そんなの信じられない、信じたくない!
…ってな気持ちでいっぱいなんである。いやはや、実にみっともない。
だって、大学生活の楽しみもよろこびも、絶望も失恋も、葛藤も達成も、全部この部屋と一緒だった。
なのに、もう二度とこの部屋に帰ってくることはないのだという。
いつかまたひとり暮らしをすることになったとしても、そのとき住むのはこの部屋ではない。本当に恥ずかしいくらい当たり前のことなんだけど、いざ我が身に降りかかってみるとそれは、結構おもたい事実なのだった。
そんなわけで、最近はわりと毎日泣きそうな思いで、時々実際に泣いたりして過ごしている。
もう二度と…という気持ちに駆られるたび、森絵都さんの小説に出てくる「永遠に〜できない」ことを恐れる主人公がよぎった。まるでわたしみたいだと思った。
いい加減、現実と折り合いをつけて前に進んでいかなくちゃいけない。もう子供じゃないんだから。
わたしは、この寂しさを音楽に閉じ込めることにした。
まるで失恋したときみたいに、同じ曲をずっと聴いている。
その曲のフレーズに今の自分を重ね、部屋でも外でも聴いている。
そうやって、やり場のない思いを閉じ込める。タイムカプセルみたいにして。
開けるときっと、思い出す。
京都のこの部屋。きいろい壁のアパート。熱のこもった時間。自分の空気がたちこめる空間。好きになった人たち。好きになってもらえなかった人たち。出逢った言葉。伝えた想い。運命を感じた作品。自堕落な生活。夜中のコンビニ。思いつきのカラオケオール。過食気味になってこわかった時期。書くことについて死ぬほど考えたこと。耐えきれず実家に帰ったこと。家の近くの商店街。赤いシールの貼られたスーパーのお惣菜。居心地のいいカフェ。ひとりぼっちの心細さ。果てしない自由を感じたこと。
なんだかんだで最高やったやん、と最後に思えるから良かった。
全部、そうであって良かった。後悔とか羞恥とか失望とか、そういうのは限りなくあったけれど、きっと全部、そうで良かった。
この町で、この時期に、ひとり暮らしができて本当に良かった。
ここで一旦、ひと区切り。
あの頃のわたしにはもう戻れない。だから、前に進むしかないのだ。
とはいえ、しばらくの間は、引きずるのもまあ良しとしよう。
だって、仕方ない。3年付き合った恋人みたいなものなのだから。
これからも、多分ずっと心の片隅に残り続けるのだと思う。それくらい、大きな存在だ。
3年間、わたしと一緒にいてくれてありがとう。
そう伝えたいな、なんて思ってみたり。
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