23歳 等身大の経済観

毎日働かなくても生活に困らない人のことが羨ましい。
社会に出た後もなお家族から潤沢な支援を受け、それを当たり前として受け入れている人のことが信じられないし、羨ましい。

大学を卒業してもうすぐ一年。曲がりなりにも社会人として、ささやかながら金銭的に自立した暮らしを手に入れた。
そのことを大変喜ばしく感じているのは事実だ。一人の娘がようやく自分たちの手を離れたことで両親はどんなにほっとしたろうかと思うし、いよいよ自分の好きなように生きられるターンが来ましたねという意気込みもある。学費に生活費に住居費に、両親の全面的なバックアップの元で生きる日々はやっぱりどこか、養ってもらっているのだという気後れのようなものがあったから。

しかし、である。それらを踏まえてもなお、金銭的にゆとりがある暮らしというのはとても羨ましいものである。たとえその資金源が、自分の労働によるものではなかったとしても。

一人暮らしをしているけれど、家賃は親が払っている。実家に住んでいて、お金は一円も入れていない。日常的にお小遣いが発生する(親→子)。そしてそれを、至極まっとうなこととして親子の双方が受け入れているのだという。
実際に働き出してみて、自分ひとりの手取りで生活することのシビアさを痛感していたわたしにとって、そんな大人たちがわんさかいることはあまりにも衝撃的だった。

というか正直、大変恥ずかしい話だが、とても妬ましく感じていた。
なんで同じお給料をもらって働いているのに、生活水準がこんなに違うんだろう。わたしは毎日働いてやっと今の生活を保つことができているのに、なんであの人はほとんど働かなくても楽に生きていけるんだろう。

そりゃあそれだけ美容にお金をかけられるはずだよね。毎日外食したって痛くもかゆくもないはずだよね。なんでそんなにお金ないの?ってびっくりした顔で言えるよね。
とんだ被害者意識に支配され、ひがみ丸出しでそんなことを考えては、無意識のうちに相手を見下すことでなんとか平静を保とうとし、しかしそんな自分にはたと気づいて凄まじい自己嫌悪に襲われる。そんな葛藤をいやになるほどくり返していた。

そんなとき、日経doorsに掲載されていた川上美映子さんのインタビューを読み、わたしは頬をひっぱたかれたような思いがした。
それは、2019年の夏に刊行された長編小説『夏物語』の内容に絡めて女性の「生と性」をテーマにした対談だった。その中で川上さんが挙げていた例があまりにも印象的だったので、以下に引用してみたい。

ある記事で読んだのですが、こんなことをした人がいました。十数人の学生たちを一列に並ばせて、質問をしていくんです。
 「両親がそろっている人」「学校が全部私立だった人」「自分のためにだけしか働いたことがない人」……。こんな質問が10項目くらい続いて、「YES」のたびに2歩ずつ進んでいく。そして質問が終わったら、「YES」が言えた人と1つも言えなかった人でとはものすごく差がついています。
 そして、先頭の人にこう言うんです。「あなたは、たまたまの幸運でこれくらい先に進んだところからのスタートだけど、もっと後ろからスタートしなければならない人がいる」と。それは個人の努力ではなく、単なる運です。下駄を履かされている人はそのことを忘れてはいけないと思います。そして元から何も持たない人は、苦労はするだろうけれど、社会や人間に関してより深い洞察を得る機会もある。言うまでもなく、社会は持たない人たちが圧倒的に多いんです。その人たちの生活を知り、その気持ちを理解できるということは、優しさと思いやりを生みます。それは人が生きるうえで最も大切なことだと思います。

(引用元:https://doors.nikkei.com/atcl/column/19/110600134/012400005/?P=2)

はたして、わたしは1つも「YES」が言えなかった人だろうか?

何不自由なく育てられ、いくつもの滑り止めを受験したうえで学費の高い私立大学に通わせてもらい、3年間にわたる一人暮らしまでさせてもらった。
家計が困窮したことがあったのかどうかすら知らない。部活動や習い事など、やりたいことを制限されたことがない。今だって、自分が生きていくためだけに働いている。

それらはすべて、自分の努力ではなく単なる運によるものだったのだと気づかされ、目の覚めるような思いだった。

 『夏物語』で川上さんが書かれていたことでもあるけれど、運と努力と才能は、一見してとても見分けがつきにくい。
しかし、自分が単なる運で手に入れたものを努力や才能の結果だと思いあがるのは、あまりにも恐ろしいことである。だからわたしは、自分がこれまでに与えられてきたもののことを決して忘れるべきではないと思った。

常に経済的に逼迫した環境の中で育ってきた人がいる。そのために進学や夢をあきらめた人がいる。家計を支えることを余儀なくされ、満足に選択肢すら与えられないまま労働者になった人がいる。毎日あくせく働いて手にしたお金を自分のために使うことなく、また明日も仕事に向かう人がいる。

正直、恵まれた人のことなんてどうだっていいのだ。経済資本に関することだけで考えても、自分より恵まれた人も恵まれなかった人も探せばきりがないけれど、そこをジャッジすることには多分なんの意味もない。
ただ、自分は何を運によって与えられ、一方で何を自らもぎとってきたのか、何を選びとってきたのかということを忘れずにいることは、とても重要だと感じた。そしてこれから自分は何を追い求めて生きていくのか、見誤らないように細心の注意を払っていたい。

経済資本を軸にした将来のことを誰かと話すとき、かならずといっていいほど登場するのが「結婚」というワードである。

キャリアを考えるにあたって「女はいざとなったら結婚という道がある」という考え方がスタンダードだなんて、令和のこの時代に嘘だろうと思っていたけれど、現在進行形でぜんぜん本当だった。
男も女も老いも若きも関係なかった。同級生も職場の先輩もちょっと話しただけの知り合いも、いや、ほんまになんでなん?

「営業職か事務職か、正社員かアルバイトか、経済力のある人と結婚か」。
この並びで、生きていくための選択肢の一つとして「結婚」が当然のごとく入ってくることに、わたしは強烈な違和感をおぼえる。

その理由の一つとして、自分が絶望的な家事ぎらいなせいか、経済面で男性に支えられたとしてもわたしには何も返せるものがない、と感じてしまうことが挙げられる。
稼げないし家事もできない、すると「養ってもらっている」感覚に陥るに決まっており、自分の存在意義を見失い、そしたら自然パワーバランスはおかしくなるに決まっている。対等じゃない夫婦関係など欲しくはない(そもそも対等に何かを返すべきという考え方が不要ですか?)。

そしてそれ以上に、「離婚したらどうするの?」という漠然とした恐怖がある。
このことを、以前「女はいざとなったら結婚」派の友人や先輩に話したところ、なんでそんなに悲観的なのかと笑われたのだが、いやいや逆になんでそんなに楽観的でいられるのですかと問いたい。

だって、結婚は人生のゴールじゃないでしょう。どんなに好き合って結婚したとしても、離婚の可能性はすべての夫婦に等しく存在する。たとえ家事が好きで得意な人であったとしても、家庭内で賃金が発生するわけではないのだから、夫と別れたら収入はゼロか、それまでよりもうんと細々としたものになる。

しかも人間というのは稼いで経済を握っている側が、絶対に支配的になっていく。これは男でも女でもそうだと思います。

(引用元: https://doors.nikkei.com/atcl/column/19/110600134/110600001/?P=2))

これはほんとうにそうだと思う。
もし仮にわたしが家庭の経済を握る側になったとしたら、相手が家事育児を一手に引き受けてくれたとしても、支配的にならずにいられる自信がない。

……と、こんな書き方をすれば、世にはびこるモラハラ夫の擁護をしているように見えてしまうけれど、もちろんそれを相手にぶつけるかどうかというのはまた別の話です。
ただ、稼ぐ人と家庭に入る人がきっぱりと分かれてしまったら、お互いの苦労を完全にわかり合うのはとても難しいことのように思える。そしてそれは、夫婦関係の破綻への最短ルートのように思えてならないのだ。

お金や結婚や出産やその後の生活や、いま現時点ではとてもリアルに感じることができないけれど、いつか必ず自分事として降りかかるそれらのことについて、日々考える。

パートナーがどんなに理解ある人間で、ジェンダー的な刷り込みが根強く残るあれこれを分担することができたとしても、出産だけは女性ひとりで行うよりほかになくて、そのことが今のわたしにはとても恐ろしい。

引用した記事をすべて読むために、わたしはこのたび日経doorsの会員登録を行ったのだけれど、回答必須の質問事項に「結婚願望はありますか」「子供を持ちたいですか」などと出てきたので、思わず手を止めてつい考え込んでしまったのだった。

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