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涙は計画どおりにいかない

ヴァイオリニストの友人からお誘いを受け、室内楽のコンサートに行ってきた。

各駅停車の電車に揺られること約15分。
はじめての駅に降り立ち、改札を出て、地図を見てもよくわからなかったので駅員さんに方角を尋ね(案の定、反対方向に進むところだった)、川沿いの道をずっとまっすぐに歩いた。

歩くこと5分。早めに到着してしまったので、受付を済ませてから席につき、本を読みながら開演を待つ。
今日は風の強い日で、ホールの外から甲高く鳴る音が聞こえた。

14時。出演者が入場し、拍手に包まれながら一礼して席につく。
すると、もうその時点で涙腺の締まりがあやしい。最初の和音が響くや否や、喉元に熱いものがせりあがってくるのを感じた。

生の演奏を聴くのはかなりひさしぶりのことで、すっかり耐性がなくなってしまっている。
表現者を目の当たりにすると弱い。7年あまり吹奏楽をやっていたせいか、そこへ音楽が絡むともっと弱い。
少しでも気を抜いたら、声をあげて泣いてしまいそうだった。

出演者の身内でもないくせに、こんな序盤で泣いたらとんだ酔狂だと思われる。
そう思って、演奏するさまを見ないように前の席の背もたれをじっと眺めたり、昨日の晩ごはんのことを思い出したり、たいして大きくもない尿意に集中しようとしてみたり、心を動かされすぎないよう、必死で意識を散らばせる。

と同時に、いったい自分は何をやっているんだろうと強烈な虚しさに襲われた。
誘ってくれた出演者の友人を除けば知らない人ばかり。それに、みんな演奏を聴きに来ているのであってわたしのことを見に来ているわけではないのだから、泣いたらどう思われるだろうと考えること自体、自意識過剰がすぎるというものだ。

ばかばかしくなって演奏に意識を戻してみたり、しかし嗚咽が漏れそうになって慌ててまた逸らしたり、結局1曲目が終わるまでの約30分間(あまりにあっという間だったので時計を見てぎょっとした)、ずっと不毛な葛藤を続けていたのだった。

そんな滑稽な抵抗もむなしく、マスクの下はぐずぐずになってしまったのだけれど。
とても美しい曲だった。とても、とても美しい演奏だった。



華やかなヴァイオリンの音、説得力のあるヴィオラの音、なまめかしいチェロの音、重厚なコントラバスの音。
重なって噛み合って広がり響く。空間いっぱいに音がふくらむ。細胞の一つひとつに沁みこんでいくような心地がした。

15分の休憩の後、2曲目、アンコールと続いて、およそ1時間半のコンサートは終了した。
入り口で友人と言葉を交わし、会場を出て駅に向かう。

きらびやかな音を隅々までたたえた身体は、2時間前とは確実に違っていた。
やっぱり生の音楽は良い。それに否応なく動かされるような心を、自分が持っていたんだとわかったこともうれしい。

非日常へ連れ出してくれた友人に感謝。
愉しく豊かな土曜日の午後だった。

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