見出し画像

自分のどん底に辿り着くのもたぐいまれなる才能

自分のことが大嫌いと言えるのは結局、自分のことが好きで好きでたまらない気持ちの裏返し。嫌うという行為もなかなかエネルギーを消耗するのだから。自分のことが嫌いだった10代~20代前半にそんな話をされても納得はしなかったかもしれない。でも「自分」はどうあがいても朝起きた時から夜眠る時まで一瞬たりとも離れてくれず一緒にいるわけで。なんなら生まれた時からそうだったしもう死ぬまで一緒に生きていくしかないわけで。それが自分という生き物。

自分のことが大嫌いだーと叫ぶそれは、若さゆえのエネルギーに満ちていた時代の特権だったのかもしれない。暴走するエネルギーを持て余すだけで飼い慣らすこともできなくて。エネルギーが外に向かうタイプと内に向かうタイプがいて、間違いなく私は内に向かうタイプ。エネルギーが外向きなのはアウトドアタイプで内向きなのはインドアタイプという感覚でしょうか。外向きなのは他人と交流することで内向きなのは独りでいること。外向きなのは自分以外を見ることで内向きなのは自分だけを見ること。

多分世間一般的に考えたら外向きの方が内向きよりも認められるんじゃないかな。くよくよ悩む時間があったらその時間を多種多様な人々と交流して視野を広げればいいものをそれができないから悩んでいたのだけど。

実は役者になりたくて19歳で上京しました。よくある話ですけど。自分のことが嫌いなくせに自己顕示欲が強いんですよ。それ結構しんどくて。嫌いだから認めてほしくて人前に出るのか、認めてもらえないからますます嫌いが深まっていくのか分からない。通い始めた養成所もわずか4ヶ月で辞めました。そうすると自分にあるのは挫折感とバイトと1kのアパートのみ。

1年以上くすぶっていました。単なるフリーターです。挫折感でひねくれていてバイト先でも友達ができず上京してるから昔からの数少ない友達にも会えず(当時はスマホもネットもない時代)夜はお菓子を大量に買い込んでそればかり食べながら一人の部屋で浜崎あゆみを熱唱していました。それでもボイストレーニングに通い始め、私はまだ諦めてはいないぞ、となんとか自尊心を保ちつつ、でもそんな安っぽい自尊心にしがみついても本当は自分のかっこ悪さに打ちひしがれているわけで。

夢がある私はかっこいいって信じてその夢にしがみついていたのは、夢がなくなったら自分には何もないことがバレてしまうから。夢がある私は素敵でしょ?上京までした私はすごいでしょ?それしか拠り所がなかったんだから。

その後もう一度養成所のオーディションを受け通い始めました。(そこも途中で辞めました)どこまでも中途半端な私。プライドだけは一人前に高い私。悪い意味で根拠なき自信がある私。だから上手くいかないことがあるとこれでもかと落ち込んででも特別努力もしない。ただ落ち込むだけ。

元々の性格が関係してるけど、あまり人に弱みを見せられないからひたすら自分の中で負のループにはまっていくだけなのです。でも今だから言える。それは私にとって必要な時期だった、と。

外にエネルギーが向かないということは、目先の快楽で気を紛らわさないことだし、人に弱音をさらさないのも他人に依存しないことだし。とことん自分の中に潜り込んでいく時期って必要なんじゃないか、と。土台の脆い建築物のような自尊心を全て砕いて等身大の自分を知る作業。危険も伴うんですけどね。立ち直れないかもしれない。心を壊してまでやる必要があるのか、とも思う。けれど自分から目をそらすことは自分と向き合えないままということ。自分を生きずに人生を終えるのということではないか。

等身大の自分と向き合い自分と喧嘩して受け入れることは、自分の本当の人生を生きていくための通過儀礼。好きで自分を嫌っていたわけじゃないけど結果的にどん底に落ちた経験は私の宝です。まるで自分がそうだと言ってるようですが、自分から逃げずにどん底から這い上がった人には特有の強さ・魅力を感じます。自分がどん底に浸っていた時は他人に頼れないなんて言いつつ、本の力を使い先人の知恵を借りて乗り越えてきた。偉人伝だけじゃなくどこかの誰かの一言が少しづつ私に勇気をくれたことがあった。

だから言い切ってしまいたいのです。自分のどん底に辿り着くのもたぐいまれなる才能の一つだ、と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?