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昭和天皇の写真が燃やされる映像を流していた。

以前、差別に関するイベントを開いた時、出口治明先生に登壇していただいた。その時、参加者から「多様性を認めるなら差別も認めるべきでは?」という質問があった。

先生はその考え方そのものに対し、「言論の自由」とは、「誰にでも罵詈雑言を言っていい」という意味の自由ではない、表現も同じで、何でもかんでも表現することを「表現の自由」とは言わない。それが世界の論理だとおっしゃった。

「表現の自由」という言葉を聞くたび、本当にそうだと思う。「自由」という「言葉」を自分の都合の良いように使うことは、未熟な子どもならともかく、大人に関しては、ほんと、どうかと思う。

私はいつも言葉の定義について、慎重だ。むしろ、こだわりすぎて言い争いの元になるほど(笑) 相手がどんなレベルでその言葉を使っているのかは常に二者間でわかり合っていないといけない。例えば「真面目だね」という言葉をどの意味で使っているのか、使っている人の間で認識が揃っていないとトラブルのもとになる。

全ての「言葉」には定義がある。もちろんその場、環境で、その「言葉」が持つニュアンスは異なるから、今、この次元で話をしてますよーという共通の認識は必要というわけだ。

ところが、芸術は言葉と違う性質を持つ。よりダイレクトに心に働きかけるから、影響については、言葉より慎重になるべきだと思う。

昭和天皇の写真が燃やされる映像を流していた。

この言葉だけで人に与えるショックは大きい。これを実際に見た人のショックは計り知れない。ちなみに、ここでいうショックは悪い意味だけではない。芸術なのだから。

表現の自由は、何を表現しても良いという意味の自由ではない。間違えてはいけない。そして、言語でも芸術でも、そこには「倫理」が必要ではないかと、私は思う。

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