わたしの音楽の部分がこうやってわたしになった話 ー深めの自己紹介です
一番最初
母によると、ヴァイオリンを私が始めたのは3歳の時だったらしい。
当時のNHKの連ドラ「チョッちゃん」を見て、ヴァイオリンと音楽大学という言葉を耳にし、ヴァイオリンをやって音楽大学に行きたいと言ったそうだ。3歳で音大に行くなんて発言は事実なのかどうも胡散臭いが、もちろん私の記憶にはない。しかし未だその楽器を続けているのだから、ヴァイオリンが心底好きなのは間違いないのだろう。
元々、音楽は全く関係の無い家に生まれたので、両親は先生探しに大変苦労したことと思う。
小学生
立方体の計算やら塩分の濃度、円周率やなんかで算数や理科の授業への食いつき度が怪しくなった頃には、「自分は音楽で生きていくんだ」となんとなく思っていて、潔く苦手なものを勉強することを捨てた。小学校6年生の頃、その年にフランスのコンクールで優勝した当時17歳のヴァイオリニスト樫本大進のコンサートでチャイコフスキーの協奏曲を聴き、ヴァイオリンと樫本氏への熱が沸騰。母にせがんで東京での樫本氏出演の公演に毎度通い、その度に出待ちをするという熱狂ぶり。その熱がいつまで続いていたのか良く覚えていないが、中学進学してもしばらく「樫本君♡」と言って雑誌から切り抜いた彼の写真を持って歩いていた記憶はある。笑 そして彼と結婚したいと本気で思っていた。
中学・高校時代
中学は合唱が盛んな学校で、音楽の先生より選抜メンバーのオーディションへのお誘いも頂いていたのだが、合唱コンクールへは3年生の選抜メンバーでの出場のため、音高受験準備を理由にお断りした。その代わり、と言えばそうなのだが中学校3年間(特に2,3年)で私が一番燃えていた行事は合唱祭。「いかにクラスを優勝に近づけさせられるか」ということに没頭し、合唱祭のある10月が終わると毎年、学校そのものに興味がなくなっていたような気がする。(当時の同級生には恥ずかしくて言えないが、音楽係としてクラスの朝練、パート練習のスケジュール割、問題点の分析と練習・アプローチ方法、各クラスメートの分析、悪い点・良い点、何をどういう順番で伝えたら全員のモチベーションをあげられるのかEtc.などの戦略を細かく立てていた)
音楽高校受験を見据えて大学の権威ある先生に教えて頂き始めたのは中学2年生の頃。小学生の頃よりお世話になっていた先生と、二人の先生を掛け持ち。目標の学校は基本的なことがきっちりと出来ないと入れない学校で、まぁまぁ一生懸命練習していた。結果、いい線行ったと思ったものの入れず、高校三年間の練習時間を確保するべく通学時間を短くするためだけの理由で地元の高校に入学。(もう一つ理由を足すと、一つ上の学年でそこに在籍していた先輩より熱いお誘いも受けていた)ところが、その年は珍しい事に入試の結果が蓋を開けたら定員数に満たない数しか合格していないことが判明。そんな理由で地元近くの学校に入学が決まった後に2次募集の試験が行われることになった。こちらにも、もちろん応募。目指していた学校は3次試験まで行う学校で、辿り着いた3次試験での面接で「ご自宅は鎌倉のようですが、ここまで通えますか?」との質問を受けて「通えます」(「通えると思います」だったかな。。。記憶曖昧です)と返事、合格を確信。手ごたえ100パーセント以上を感じていたにも関わらず、不合格。そんなこともあり入学した母校は校風もさておき、そのような裏事情があって通うことになってしまったのでとにかく全てが嫌いだった(そして熱く誘ってくれていた先輩は、2次募集の入試で合格し、見事そちらへ移って行ってしまった)。学校での時間は全て無駄だと思っていたので、高校在学中は最初の1年近くは殆ど率先してクラスメートとの関りも持たないようにしていた。
朝7時頃には学校に着くようにして朝練、休み時間中は音楽に関する調べものに励み、留学を考えだした頃からは、音楽の調べものに加えて英語の勉強もしていた。
高校2年の頃だったか、ちょこっとした高校生のための国際音楽コンクールを受けて入賞。今思えば、高校受験を失敗し無我夢中で音楽に励んでいた私に、少しの自信を与えてくれる機会であった。
留学まで
子供のころから、「普通は○○」「みんなはこうだから」といった同調圧力(当時はこの言葉も無かった)のような空気を変なものだと感じていて、西洋文化に対する漠然とした憧れを持っていた。西洋の方が個人が好き勝手自由にやっているようなイメージがあったからかもしれない。高校受験の敗北と挫折感に加えて、高校生の時にヴァイオリンの講習会で訪れた初めての外国の衝撃もあり、大学から外国に出たいというスイッチが密かに押されたのは高校1年の夏休み後。その外国が、イギリスだった。
本当は樫本氏が音楽を学んでいたドイツに留学したかったのだが、「ドイツ語能力必須」との学校案内を見て、英語もできないのにドイツ語なんて。。と、私にとって初めての外国であるイギリスの印象が強烈だったことも手伝い(あとはイギリスの美術館は無料だという事も魅力に思った)、早々とドイツは諦めた。
両親の留学に対する条件が
・留学については自分で全て調べる事
・東京芸大に入学すること
だったので、各学校のホームページで情報を収集し、最終的には英国滞在中に出会ってメールのやり取りをしていたアイルランド人ピアニスト(勝手に憧れの想いを抱いていてメール文通にこじつけた。笑)が卒業した学校に決めた。重要な決断は常に不純な動機である。(それは冗談としてもう一つ別の理由に、日本との繋がりや教授の政治的な関係が全く無い場所に居たかったということも大事な理由だ)
そして留学について、両親と祖父母にプレゼン。教育に理解のあった祖父母達のおかげで、やりたいことをさんざんさせてもらった学生時代だ。
当時、母校の入試は日本でも行われていたので、東京で受験。実技はもちろんの事、独学で学んだ拙い英語で面接にも臨んだ。
芸大の入試の前に英国の受験を終え、結果が分かったのは同じ頃だったか芸大入試の前には分かっていたのか、今ではもうはっきり覚えていない。ただ、芸大入学の前には夏休みに入った時点で渡英することを決めていた気がする。
高校は低い成績で卒業、あまりに嫌いな高校生活だったため、卒業式を終えて直ぐに制服をゴミ袋に入れた。
英国
学校が始まる1か月半前に渡英していたので、夏の間、特に語学学校に行くわけでもなく、音楽祭を聴きに行ったり、とにかく生活に慣れることに集中。
師事した先生はユダヤ系のベルギー人、ロンドンに在住歴が長い先生だった。それもエリザベート国際コンクールでも入賞歴があるような輝かしいキャリアの先生。キャリアのキラキラさとは真逆に、先生ご本人はとても素朴で地味で温かいのんびりとした先生だった。そんな先生の元、のんびりと学んだが、楽曲の内容について言われたことが多かったかもしれない。
大学学部時代は異国の生活を満喫し、学校の寮で深夜まで練習したり、新しく出来たラテン系の仲間たちと朝方までパーティして9時の授業に少し遅れながらも出席したり、楽しんだ。同学年のヴァイオリンは20人。大学学部時代は授業の課題やエッセイの提出、そして練習に追われていた。学部生活後半になると学校での人間関係に疲れていたが、寮を1年次の後に出てアパートをシェアしていた私は、そこでの日本人ハウスメイト達に本当に助けてもらった。ところで、実はコンクールというものに大変な苦手意識を持っていたのだが、2006年に受けたタンブリッジ・ウェルズ国際若手音楽家コンクールでファイナルまで進み弦楽器部門3位を受賞。2007年の卒業時に学内弦楽器コンクールで一位をもらい、というのが最後の受賞歴で少しだけ自信になる。(ドイツに移ってから実は二度コンクールを受けていたのだが、どちらも演奏会優先にしていたため準備が間に合ずギリギリの状態でとりあえず現場に行っていた、という酷さでした)
ドイツ
ドイツでお世話になった先生は、ロシア人の先生で、とても厳しいレッスンだった。この先生に巡り合うまでも色々なストーリーがあるのだが、音楽は関係ないので割愛。ただ、ドイツの2年間は、田舎町でこの先生の元、家に引きこもって練習だけに励もう、と覚悟して臨んでいた。そしてその通り、英国での時々の演奏会のためおよそひと月に一度のロンドンへの訪問以外は、ドイツのアパートに引きこもって練習していた。
ドイツに引っ越す少し前に、イギリスの母校のピアノ教授と一緒に演奏しないかと誘って頂き、時々小さな演奏の機会をもらっていた。そんなわけで、ドイツに先生がいる間は朝起きて練習。お昼に、先生にその日の夜にレッスンをお願い出来るか電話、レッスンが入るのならそれまで練習、そうでなければ練習をして街に息抜きに散歩、というような毎日。先生も懲りずに、街にいる間は毎日、もしくは二日に一度はレッスンしてくれていたから、本当にありがたい。今の私があるのはこの先生の元で一から鍛え直されたところも影響が大きい。何しろ基本練習のやり方からみっちりだ。
それでも1年過ぎた頃に行き詰まりを感じ、そんなところに大きな出会いがあった。出会いとは不思議なもので、英国のピアノ教授に誘われて参加したイギリスの講習会で教えてもらった講師の先生より「来月自分が開催するオランダでの講習会に来ないか」というお誘い。先の予定(別のイタリアでの講習会賛歌)があったので丁重にお断りしたのだが、講習会もあと一日で終わり、というときにどうも頂いたお誘いの事が頭から離れなかったので、やはりオランダに行きたいと思っている旨をお伝えした。このオランダの講習会でイヴリー・ギトリスという魔法使いのようなヴァイオリニストと出会うことになる。英国のピアノ教授が昔ギトリスと演奏をした事があり、実現はしなかったものの、日本でのツアーのピアニストとして打診を受けたことがあるそうで「よろしく」の伝言を預かった。そんな話をしていたら、ギトリスが「この講習会の後は何してるの?」私「南フランスでコンサート。。」ギトリス「私もその頃南フランスなんだ、なんてびっくりなんだ!良かったら数日早く来て私のコンサートに来ないか?」
こんなお誘いを頂き、厚かましくもホテルの手配を頂いたり、南フランスのギトリスのお知り合いの凄い邸宅に泊めて頂いた。本番も聞かせてもらい、それからご飯を食べ、飲みながら色々な話を聞かせていただき音楽や人生について語り合う。
ひと夏、実に貴重な経験をさせていただき、その後もパリに行けば自宅に顔を出させてもらう、そんなありがたい関係ができ、そこからまた素敵な方々に出会わせてもらう、なんてふうに出会った素敵な友人たちが増えた。
ドイツ滞在時代の濃厚なヴァイオリンの練習時間と音楽への向き合った時間が、今の私の根底には大きくあるのかもしれない。
その後
ドイツでの2年を終えた後、悩んだけれどもやはりロンドンに再び戻りたい、という思いがあり、母校の修士課程で再度学生に戻る事としました。英国に戻ってからは学校でのプロジェクトに忙しくしていたりピアノ教授とのコンサートがあったり、カルテットを組み様々な場所で演奏するなど、忙しい毎日。在学中は学校に著名な音楽家がゲストで出演するコンサートのメンバーに選出されるなど、ハイティンク、アシュケナージの棒で音楽をさせてもらったり、と貴重な経験を積みました。
当時は大学の資格を取得した人はイギリス国内に2年間居られる制度があったので、修士課程を終えた後はフリーランスとして活動。その頃は学生時代から教えていた生徒さんたちをそのまま教えながら、カルテットや個人に頂く演奏依頼を消化する日々。パーティ演奏、リサイタル、オーケストラの、室内楽など、なんでもやった。そうやって過ごしているうちにビザが切れ、荷物をイギリスに置いたまま日本に帰国。というのも、ちょうどタイミングよく、ワーキングホリデーの申し込みが出来たからだ。といっても、このころのワーキングホリデーは宝くじのような抽選で、当たる確率は多くは無かったらしい。なので、イギリスに再び戻って仕事が出来るのか分からない状態での帰国、そして抽選結果が出た時は祖父の所で年越しをしており、当選があまりに嬉しくて、そして安心して泣いた。
イギリスに戻った後は、しばらく忙しい日が続いていた気がするがぷつんと突然、ヴァイオリンを弾くので忙しいのが嫌になり、また色々と思うこともあって、日本食レストランでホール担当のバイト。これが私の人生初めてのバイトだ。(初めてなのに筋がよいと、誉めて頂いた)と、同時期にホームレス自立支援をしている「ビッグイシュー」という雑誌の会社でボランティア。ここで売り子さんの売り場を歩いて回り、困っていることは無いかと聞いて彼らのサポートをする手伝いをした。
音楽以外の事もほどよい時にそろそろ潮時、と思い、再び音楽に戻る。が、その頃にはカルテットも解散して(メンバー内での歩調が合わなくなったことが大きい解散理由)、フリーの奏者として声を掛けてもらえるプロジェクトには色々顔を出した。その頃は生徒さんの数がレギュラーで一定数いたので、そちらの方が収入のメイン、そして時々のプロジェクトでコンサートやライブ、録音スタジオに行く、という感じだった。
さて、ワーホリ期間もあと残り1年、が見えてきたころに、日本ではないヨーロッパ(方面、イギリスも含む)のどこかに居られる方法として、オーケストラのオーディションに応募し始めた。基本的に求められているポジションは正団員の為、永年仕事が出来るビザを持っていることを求められるので、その点でどうやったって永住権を持っていない日本人の私は殆ど書類選考で落とされるのだが、それでも結構な数のオーディションをイスラエル交響楽団、コンセルトヘボウ管弦楽団、コペンハーゲン劇場、ドイツ交響楽団、リヨン交響楽団などなどのオーディションを受けてきた。元来、室内楽が好きなものでオーケストラはどちらかというと聴く専門。苦手なものにはやはり縁がないようで、結局どれも朗報とはならなかった。日本を出て約13年。ただ都度都度の滞在について行き当たりばったりで賢くしてこなかったがため、弁護士を通してアーティストビザの申請など、の方法も検討したのだが、ドイツに行っていた2年間の為学部時代のイギリスでの4年間が無効となってしまい、2016年2月、泣く泣く日本に戻ってくる事となる。
といっても、日本に帰国した当初は日本に完全帰国したという決意も、どうにかしてでもイギリスに戻れる手はずを整える、とも、どちらに対しても「これだ」と思えず、しばらくは宙ぶらりんでいよう、と、教える事も演奏会をお約束することもなく(半年後にいないかもしれません、という心持で何も引き受けたくなかったから)、銀座のクラブで音楽を演奏するバイト、をはじめてみた。蓋を開けたらこの店、ただ音楽を演奏するだけでなく結局はお客様とお酒を頂くコンパニオンのようなものしなければならなかったのだが、まぁ少しは人生の勉強になったので、この期間はそれはそれで有って良かった時間だと思っている。
決断
宙ぶらりんの時期を終わりにしたのが忘れもしない、イギリスのEU離脱について意を問う国民投票。この結果が出た時に、しばらく日本を拠点とする決心をした。それから教えたり、弾いたり、頼まれ仕事で通訳をしたり舞台裏のお手伝いをしたり様々。あのままイギリスにいたら恐らくお会いすることの無かったであろう方々と会わせていただき、貴重な経験をさせていただいている。
ギトリスと会った時もだが、音楽外でも、そして日本に戻った後のお仕事でご一緒させて頂いた方々も、本当に普通ではあり得ないような出会いにとにかく心から感謝です。
そこそこのコンクールでの受賞歴がないことに少しばかり劣等感を持ち、ヴァイオリンが上手な楽器奏者とは、きっと死ぬその時まで自分が思うことは無いと思います。だけれども、等身大の自分で出来るだけのことをやりながら音楽に携わって生きていけたら、といつも模索中のわたしです。
余談かもしれませんが先日、小学校の教育実習生からもらった寄せ書きを自分の部屋で見つけました。4人中二人の先生が私のはっきりと物を言うことについて触れていた中、無記名で「人の気持ちの分かる優しい人になってください」と書いた先生、きっと私はその先生を傷つける事を言ってしまったのでしょう。大人になってその言葉を見て、改めて気を付けて人と接せなければと背筋が伸びる思いでした。
空気を読む人間ではありませんが、おかしいぞという事にはご指摘頂けますと幸いです。
お会いすることがありましたら、是非宜しくお願い致します。