腎(じん)①尿の排泄をつかさどる内蔵。②もっともたいせつなところ。

 風邪という風邪もひかず、体調を崩したいと思っても崩せず、会社に二度ほど「体調不良」だと電話して休んだ時には嘘をつかなければならなかったほど健康体である今に比べ、幼い頃の私は身体が弱かった。小さな風邪もよくひいたが、いちばん大きな病気といえば、小児喘息の発作が出て1週間ほど入院し、治った瞬間に薬の副作用か、突然アトピーに悩まされることになったくらいであろうか。そのアトピーも、ステロイド剤の恐ろしさに直感的に気づいてくれた母親のおかげで早々に全て排毒で出し切っていたので、今は全く症状はない。(当時4歳くらいだったが、それでもあの地獄の痒さに耐えた日々は断片的に記憶に残っている。)
 以降、授業に出る面倒臭さに仮病を使って保健室に「休息」しに行くか、たまにインフルエンザにかかる以外は、全くの健康そのものである。ましてや、腎臓なんてどこにあるのかも曖昧な臓器をやられることなど、人生でそうそうあるものではない。

 なんて思っていたら、ある記憶が蘇ってきた。遡ること約16年前の高校3年の時である。ん?16年?もう16年なのか?ということは私の年齢は…というわけで、高校3年の時の話である。

 私の高校3年間の思い出は、たったの一言で終わると言っても過言ではない。『ダンス』である。もしくは『ダンス・ダンス・ダンス』である。これは村上春樹へのオマージュというよりかは、『ダンス(高校1年)・ダンス(高校2年)・ダンス(高校3年)』の省略である。というわけで、明けても暮れても私の高校生活は、ダンスに費やす日々に消えていった。
 とりあえず進学校と呼ばれる高校に通い、しかも(何故か)文系のトップクラスに入っていたので、真面目な私はちゃんとお勉強もしていた。宮崎の特殊な教育制度のせいで、早朝から夕方遅くまで課外授業もあり(0時限目と7時限目が存在していた。もやはSF並みのぶっ飛び方である。)、週末には模試のためにかなり頻繁に登校したりもしていた。同時にピアノも習っていたし、思えば今よりも多く映画を観たり本も読んでいた。高校生の私は、明らかに今よりも忙しい生活を送っていた。
 今考えると、どんな時間と体力のやりくりをしてそれら全てをこなしながらも、平日夜に友人たちとシャッター街の真ん中に薄暗く君臨した、もはや機能していないデパート前に集まり、その入り口の鏡に向かって夜遅くまでダンスの練習していたのか。しかもその頃の私は、J-WAVEで夜11時から夜中2時くらいまでやっていたSoul Trainというラジオに大ハマりしており、練習から帰って風呂に入って宿題を終わらせた後に、その番組をベッドの中で聴いたりしていたのだ(電話も何度かしたことある)。週末には親に嘘をついて、当時付き合っていた宮崎市に住む彼の家に泊まりに行ったり、高校生のくせしてクラブに遊びに行ったり(当時は裏口が簡単に開いた)。若者の体力とはそこまですごいものかと、今こうして自分の過去を振り返って目眩がしそうである。

 さて、そんな多忙な日々を送っていた高校3年生の秋、待ちに待った高校生活最後の体育祭と文化祭を目の前に控えていた。うちの学校では、3日連続でそのふたつの行事が行われ、まとめて「葵碧祭(きへきさい)」と呼ばれていた。
 その頃、私の学校では、ヒップホップやらロックやらハウスダンスなどを習っている人は同じダンススクールに通っていたYくんと私くらいだった。ダンスブームのセカンドウェーブくらいの時代が始まりかけていた頃だった。Yくんは基本的にはブレイクダンス専門だったので、団で踊るダンスの振り付けの手伝いに駆り出されることはなかったようだったが、一方の私は自分の係の仕事と合わせて、全校ダンスの振り付けの手伝いやら、団の振り付けの手伝いやら、またYくんとふたりで文化祭で踊る振り付けの練習などで、大大大忙しだった。
 その時期は課外授業も少しは早く終わるわけだが、そこから祭りの準備に向け毎日毎日夜まで残る日々。もちろんその間も、真面目な私は学校外の習い事などもすっぽかすことはなく、眠くて倒れそうなのを我慢して、全てをスケジュール通りこなしていた。単純に周りから頼られることは嬉しかったし、何よりそうして「頑張っている」状況が好きだったのだと思う。

 さて、葵碧祭まで残り数日となったある日の夕方、目が覚めると私は病院のベッドに横になっていた。ドラマなどでよくある「あれ?ここは?」である。あまりにも芸がなくクリシェな言葉だが、本当にそうなった人間にしかわからない、それしか出てこない言葉である。原因は、多忙による疲れだった。人生で初めての失神だった。
 ベッド横に母親が座っていて、目が覚めると「ああ起きた」と言って先生を呼びに行った。先生は部屋に入ってくると「大丈夫?体育祭の準備で頑張ってたんだってね」と声をかけてくれ、その後に「最近、血尿じゃなかった?」と訊かれた。そう尋ねられて初めて「ああ、あれが血尿か」と、思い当たるふしがあった。私は倒れる数日前から、トイレで用をたす度にとにかく痛いおもいをしていたのである。のほほんと、普段生理痛なんてものもないのだが、その時は自分で都合よく勝手に「生理痛」と診断していたのだ。先生に血尿だと言われてやっとそれを認めたと思っていたが、本当のところ、自分でも血尿であることは分かっていたんじゃないかと、今となっては思う。都合の悪いことをすり替えて、「本当に」気づいていないフリをできるのもまた、若さなんだろうなと、31歳の私は思う。
 私はしばらくそのまま点滴を受け、その日は家に帰ってまたすぐに寝た。病院の真っ白で無機質な天井を見上げながら思っていたのは、頑張りすぎたことに対しての反省などではなく、倒れたことによりその日の準備が自分の手でできなかった悔しさだった。何でも、自分でやり始めたことは自分でしなければ気が済まないのだ。壊れた腎臓の上に手を重ね、大丈夫大丈夫と自分自身をなだめていた。

 点滴のおかげもあり、その次の日からはまた完全復活。残りの準備も無事終わり、葵碧祭は大盛況のうちに幕を閉じた。高校最後の年の体育祭で自分の団が優勝できたのかも、どんな振り付けをつくり、どんなダンスを躍ったのかも、今は記憶にほとんどないが、準備の日々をがむしゃらに走り回って、笑いまくって、青春しまくっていた記憶だけは強く残っている。

 大人になってからは、何事も結果で判断し、過程部分はただの補強としかみなされない気もするが、青春という日々においては、何かの結果ではなく、その過程こそが思い出を色濃く残す、いちばん温かなでたいせつな「腎」なのかもしれない。

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