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1987 夏 - 1

 その女の世界は幸せと名のついた素粒子だけで構成されていた。結婚7年目を迎える夫と子供ふたりとの生活に、女は不満ひとつ抱いていなかった。

 時刻は18時34分。夕食の準備で台所に立つ女の後ろで、9歳の息子は昆虫図鑑を読み耽り、4歳の娘はリカちゃん人形で三つ編みの練習に励んでいる。もうじき夫が帰宅し全員揃っての食事の時間が始まる。子供にとっては少々遅い夕食だが、それがこの家でのルールだ。7年間一度もリズムを壊さず繰り返してきた。毎日幸福が同じ量だけきれいに分配されている、この家族の在り方が女は好きだった。0.1グラムのズレさえ許さまいと丁寧に丁寧に調整、分配し、全く同じ分量だけの幸せが明日も訪れることを願い、毎晩目を閉じた。 

 その晩女は夢をみた。実験用マウスと化した女の家族はそれぞれ別々のケージに入れられ待機させられている。目の前で次々と他のマウスたちが檻から出され、黄色い液体の入った注射を打たれている。しばらくすると彼らは力なく倒れそのままピクリとも動かない。それを見た子供たちは恐怖に慄き慌てふためき泣き叫んでいる。夫が必死に宥めるも効果は全くない。女はそれを見ながら何も考えることができない。このままいくと全員が確実に死んでしまうだろう。キイっと微かに扉が開くような音がして後方を振り返った 時、女はあることに気付いた。自分のケージの扉だけ鍵がかかっていない。そしてそのすぐ向こうに見える部屋のドアがわずかに開いている。それに気づいた瞬間、彼女の顔に喜びの笑みが広がる。
「(逃げられる!私は助かるのね!)」 

 そこでハッと目が覚めた。多量の汗をかき布団までびっしょり濡れている。女は上半身を起こし部屋を見回す。扇風機が止まっていたせいで部屋がとんでもない暑さだった。寝る前に間違えてタイマーをかけてしまったのだろう。女は息を吐き両手で目を塞ぐ形で俯く。自分の顔に他人の顔がくっついているような、奇妙な感覚がする。(夢の中から責任が始まると言ったのは誰だったっけ。) 

 朝食を終えた夫と子供を見送った後、女はテレビをつけニュースを観た。ちょうど新国劇の解散ニュースが報じられているところで、舞台の上で見事に剣をさばく侍姿をした俳優が映し出されている。視点が徐々にテレビ画面から遠のき、女は眩しく賑やかな舞台に幕がゆっくりと降りてくる様子を想像する。舞台手前に並んだ役者達が不気味な笑みを浮かべながらこちらに手を振り続けている。 彼らの上方から黒く重いその幕が、ゆっくりとゆっくりと焦らすように降りてくる。女はその幕から目を離すことができない。 

 女はその日近所のペットショップで千円で安売りされていた一匹のハムスターを買った。夕食を終えるとケージの前に夫と子供を並べ興奮する3人に女は言う。
「絶対に何があっても扉の鍵だけは忘れないで。この子には檻の中の世界が全てなの。この子の自由は外の世界にはどこにもないの。」

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