都度

都度〈名〉…するたびごとに。「そのー質問する」類)たび・毎回

Twitterがモバイル版として普及し始めたのが2009年(もともとのウェブ版では「Twttr」という商品名で、これは2006年に開設された)。Instagramは2010年からサービスが開始している。2009年と2010年とほぼ同時期にリリースされたこのふたつのSNS(Social Networking Service)が登場以来まだ10年ほどしか経っていないというのには驚く。SNS中毒者として今日存在する私を含む多くの人々にとって、これらサービスから隔絶された生活は、ほとんど想像不可能な領域になっている。最近朝目覚めてギョッとするのは(今に始まったことではないのだろうが)自分の意識が完全に覚醒しきる前の段階で、手が勝手に携帯に伸びて操作してしまっているということだ。目が開くとそこには、すでにロックも解除されタップして開かれたTwitterもしくはInstagramの画面が映し出されている。「気持ちわる」。この前思わず呟いてしまった。私は自分自身のことを「病人」だと思っている。

さてそんなSNSだが、その中毒性を批判的に感じる一方で、確かに便利なツールであることは認めざるを得ない。朝Twitterを開きさえすれば、寝ている間に起こった世界のありとあらゆるニュースはだいたい把握できる。わざわざYahoo!ニュースなんかを調べまわさなくとも、今何が話題でとりあえずどのニュースをおさえておけば周囲と話ができるかなど、簡単に情報は手に入る。テレビを持たない私にとっては、ある意味で世間と私を瞬時に繋ぐ媒体として機能してしまっている。その安易さがまた問題なのだが、現代の忙しい朝を生きる私たちにとって、それが効率が良いのもまた認めざるを得ない。しかし残念なのは、流れてくるニュースのほとんどは「批判に値する」ニュース(および投稿)ばかりだということだ。つまり、人が読んだり見たりして喜ぶような内容ではないことが多い。そのせいで幸福度が下がっているという意見もあると聞いたが、それは間違いないだろうと私個人としても思う。

余談だが、如上の通り私はテレビを持っていないためワイドショーやニュースなどをみる機会が日常生活では全くないわけだが、テレビと共に生活を送っていた時と比べるとずいぶんと気軽に生きている気がしている。テレビ生活をやめた友人と話していても同じような意見を持っていたので、少なからずそれは事実なのだと思う。深く考えずとも、朝一からくだらない政治家のつまらない汚職問題に関わる情報を摂取するかしないかがその日1日のストレスに大きく関わってくるのは当たり前の話である。テレビ無しの生活者は自ら情報収集する習慣がなければ、世の中で起こっている出来事のほとんどを知ることはない。いわゆる無知の状態である。このことに関する善し悪しの話はここでは横に置いておくとして、しかし同時に言えることは、知らないかと言って自分の生活の中で何かそこまで大きく困ることがあるのかといえば、そうではないというのも事実である。結局のところSNSがテレビ代わりとなり私にあらゆるニュース・情報を運んでくるわけだが、最低ワイドショーなどで怒りを助長させるような発言をするコメンテーター達の話を聞かなくて済むだけでも、ずいぶんと心的状態は違ってくるのではないかと思う。

昔(といってもたかだか数年の話だが)は、怒りが込み上げるようなニュースをSNSで目にするその「都度」(やっと主役登場)いちいちその事に対し意見を書いてシェアしたり投稿したりしていた。その当時はほとんど使命感(私の意見を世に伝えなければならない的な)のように感じてやっていた行為だが、今冷静に考えてみると、ただしっかりした人間(若者)に見られたいが故にやっていただけの行為だったようにも感じる。「ほら、私こんなに真剣に世の中のこと考えてるんだよ」とかいう、傲慢で浅はかな自分がいたような気がする(注意していただきたいが、これは私個人が私という人間を客観視した時に思うことであり、他人がそれをやっていることに対してはどうでもよい。彼らには彼らなりの意思と意図があるはずだから)。自分がこれまでにほとんど反射的に感情(怒りや悲しみといったマイナスな感情)で突っ走ってやってきた行為(SNSでみたニュースに対しコメントをつけて拡散させる行為)に、正直今の私は萎えてしまう。つまるところ、私はそのことをネタにして、自己アピールの材料として利用していたに過ぎない気がするからだ。

菊地成孔は、パソコンの出現により世の中全ての人が批評家になった、と言っている。パソコンの出現を経てSNSが登場、彼の言葉通り世界中の人々が今やまるで「本職かのように」批評する時代になった。残念なことに「批評」には良い点を讃えるという意味も含むことを忘れている人も多いようで、SNS上を流れる個々人の批評の80%は、批判と化しているように思える。確かに彼らの意見に賛同することもあるが、果たしてこの140字で戦う場(Twitterのこと)が、彼らが心の底から他人に言いたい・伝えたい物事を語るに本当にふさわしい戦場なのだろうか。というか、彼らは一体、誰に対して言葉を綴っているのだろうか(Tweet=つぶやき、という名から最初は個々人の単なる日常のぼやき/つぶやきの場であったのだろうが、今はそれを飛び越した「他者」を意識せずには行われていない。そうであれば、一体対象は誰なのか、ということを考えるのは非常に大切なことになってくる)。

誰もが経験したことがあるかもしれないが、一度投稿した文言を取り消すことがある。その理由は「よくよく考えたらこれは恥ずかしいな・間違っているかもしれないな」というものではないだろうか。私もその経験者のひとりである。しかし私はそういった投稿消しをするたびに虚しさを感じる。そもそも私は何故これをやっているのだろうかという、根源的問いに戻らざるを得ないのだ。「書く前に考えれば良かっただけの話を、どうしてできなかったの?何をそんなに焦って書くことがあるの?あなたがどうしても言わなければならないことって何なの?てかあなたは、何様?」そういう問いが自分にかけられた。つまりそんな安易な感情だけでぶつけた言葉で人に影響を与えることができると勘違いしていた自分が、急に恥ずかしくなったのだ。

物事は全て多面的である。物事を分析し冷静に判断するには、その物事を取り巻く物語を読み解いていかなければならない。それには主観と客観とを反復横跳びしながら、時にジャンプしたりしゃがんだりしながら、時間をかけてあらゆる方向から探索していかなければならない。その先に現出する自分の答えが、真の批評として存在できるはずであり(もしくはそうであってもらいたい)、そういう時間と苦悩の中から絞り出されたものだからこそ、人を動かすことができるのだ。そういうことを考えていった時にふと浮かんだのが、芸術家たちの姿であり、私が芸術に触れている時に感じるものだった。

私の制作しているzine Pursuitの2号目でインタビューしている、アメリカ人アーティストのアーロン・ロスは「時間をかけて作品と向き合う中で、大事にしていることは?」という質問にこう答えた。
「人生とは何なのかを考えてそれをどう捉えるのかとか、生きていく上で価値はどこに存在しているのか、究極的には死とは何なんだろう、っていうような問題をじっくりと時間をかけて考えることだと思うんだよね。」
芸術家がひとつの作品を生み出すのは、そう簡単なことではない。これは私自身制作を通して実感していることでもある。ましてや人生(引き起こされる事件・出来事にも必ず誰かの人生が存在する)について語ろうとするならば、なおさら時間をとった向き合いが必要になる。

ピカソの逸話にこんなものがある。
ある日通りを歩いていたところ「ピカソさんですよね?何か描いてもらえませんか?」とファンの女性に声をかけられた。ピカソは30秒ほどでささっと差し出された用紙に描き、「その絵の値段は100万円です」と告げた。女性は「たった30秒で描いた絵ではないですか?」と驚いて訊くと、ピカソはこう答えたという。「それは違いますよ。これは私の30年と30秒をかけて描いた絵です」。

芸術家はそれだけ長い間自分と、そして芸術という概念そのものと常に対峙して生きている。自分や芸術と向き合うということは、ある意味でその時代に生きている彼らの社会と向き合うことでもある(人は社会全体について語ろうとするが、己自身を見つめ語りさえすれば、本来ならばそれが社会の話になるのである。人々はもっと自分の中に存在している己の「社会性」について認めるべきではないのだろうか)。つまり彼らから生み出される作品は、ダイレクトに社会を反映したものなのだ。実際に歴史的に起こったアートムーブメント(絵画、音楽、文学など全て)を調べていくと、そこには必ず政治の反映やその時代の人間性が反映されていることに気付く。飾られた作品のその表面下には、数え切れぬほどの時間と経験と思想の層が重なっており、私たちはその作品との対峙を通して、作家の中に存在する社会=社会全体もしくは広い範囲での一部を垣間見ることができる。彼らの制作は、朝SNSで流れてきたニュースに対し即座にレスポンスするそれとは、真逆の行為なのだ。そしてそういう人々だからこそ、生み出された作品には観者に真の意味で伝わるものがあるのではないだろうか。ある程度の時間をかけてその物事と向き合う中には、おそらくイエスでもノーでもないグレーゾーンも存在するはずで、一度そのゾーンを体験しなければ、本当に観者に伝えたいことなど見えてこない。芸術はその曖昧さも含んだ現代性や社会性を反映させるのに、とても適していると私は思っている。おそらく私の内部でそのような構造が疑問や経験を通して構築されていった結果、今の考えに至ったのだと思う(じゃあ完璧にそれをしないかといえば、それはまだ自信がない段階だが)。私は批評も芸術の一部として存在していると考えている。

私の大好きなヒップホップグループ Dos MonosのTaitan Manも、ツイートするのは自分の好きで勧めたいことだけでいいんじゃないか、というようなことを書いていたが、それに激しく同意する私である。人物・事物を賞賛するエネルギーは、その事と関係を持たない人々にもポジティブな力を与える。しかし批判というネガティヴなエネルギーは、対象となる人物にも、その事と関係を持たない人々の双方に、ネガティヴな力を与える。私は何も批判が悪いといっているわけではなく(私は批評を読むのも大好きである)、それをするならば熟考した上で行動に移すべきなのではないかという話だ(というかこんなことは小学1年生でもわかるほど、当たり前の話なのだけれど)。

人の批判から気づきを得ることも多いし、卑怯だが時と場合によるというのが正直なところではあるが、最低私個人としては気をつけたい点である。どうせ資本主義の末端で急かされて生きなければならないのだし、自分の意見くらい自分で時間をとって考えたいものだ。自分の感受性くらい、自分で守っていきたいのだ。

批評家はある対象に向けて批評を行なっていると思われがちだが、私はそう思わない。彼らは結局のところ、ある対象を分析していくことにより、自己追求をしているというようにしか私には思えない。何故なら、分析していく過程で結局その意見に至るためには、彼らの人生観が多分に反映されなければいけないからである。だからこそ批評家によって見えてくる部分が異なるわけで、自分の内部を考慮せずに出てくる意見には、相手を納得させる力も感心させる力も生まれないのではないだろうか。批評家たちも芸術家と同様、自らの身体と精神を磨り減らしながら物事に対峙し、そうして素晴らしい(時に激しすぎる)批評をこの世に残していくのだ。それだけの覚悟をもって皆がSNS(上で批評すること)と関われば、もう少し真の意味で役立つツールになるのではないだろうかと思うこの頃だ。なんて、これはもしかすると真面目過ぎる意見なのかもしれないが。

ああ、だいぶ長くなってしまったようだ。というか主人公「都度」さんが一度しか登場していない。いやはや熱くなるとどうもいけませんね…

とりあえず禁断症状が出ているので、携帯でTwitter開かせてください(オチ、むしろ乙)。

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