1987 夏 - 3
「先日ニュースでもあったように世界の人口がついに50億人を突破したらしい。面白いのはつまりこれは、人が死んでいくスピードよりも速いスピードで人が生まれているってことだ。もしくは死なない人間が増えてるってことだな。」
社会科講師の雑談はかれこれ15分ほど続いていた。夕課外まで残しといて雑談かよ。生徒全員の顔に大きく書かれたその文字は講師にはどうやら読めないらしい。激しく降る夕立の音と講師の声が合わさって教室内に鳴り響き、耳元で誰かが叫んでいるかのようにうるさい。
「(50億人を突破した)」
青年はボンヤリと目の前に座る女子の肩まで垂れた髪の毛先をなんとなく見ながら、講師の言葉を頭で繰り返す。
ふと彼は、母親が以前話してくれたある事を思い出す。それは彼が生まれる1年半ほど前に母親が流産した話だった。安定期に入る前、散歩中に小石に足を引っ掛けて転倒してしまったのが原因だった。そこまで派手に転んだつもりはなかったがその命はあっさりと流れた。
「しょうがないってわりとあっさり思ってたよ。まあ代わりにあんたが出てきてくれたしね。」
そう母親は言った。
(僕は50億人に組み込まれて、僕の前にお腹の中にいたその命は組み込まれなかった。お母さんが流産していなかったら、僕は ちゃんとここにいたのかな。僕はここにいて、あの命はここにいない。)
窓の外を見ると空から地上に向かって幾筋もの透明の糸が伸びている。空の黒さを反転させたように校庭の土も漆黒色に染まっている。黒く塗られた空を手前から奥に辿ると3分の2ほど進んだところにくっきりと横線が引かれ、そこを境に夕方の濃いオレンジ色の晴れ空が始まっている。
(あっちからはこっち側がどういう風に見えるんだろう。)
突然真上から土砂降りの睡魔が降ってきて、青年は耐えきれず目を閉じた。次第に雨足が遠のき、教室内には講師の声だけが相変わらず鳴り響いている。
窓際の生徒が窓を開けると、湿った夜の始まりの風がやわらかく室内に広がった。
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