狭ー(音)きょう、(訓)はさむ、はさまるー両がわからせまる。◉挟撃

昔から身長144.9cmの私が「狭い所が好きなんだよね」と言うと、「はは、小さいからね」とよく人から返される。これはとても不思議な回答である。小さい=狭い所OK、という思考回路の仕組みは全くナンセンスであることに彼らは気付いていない。背が低い/小さい=狭い空間に押し込み易い、というのであれば背が高い人に比べれば確かにそうであるが、「好き」だという嗜好に対し身長の低高を持ち出すのは、かなりおかしな考えである。

まあ、それはどうでもいいや。そう、私は狭い所が好きである。

一番落ち着く場所は、家のトイレだ。これはよく耳にする話なので、私以外にも多くの「トイレで落ち着く」人は存在するはずである。たまにトイレであればどこでもいいという人もいるようだが、私は断じて「我が家のトイレ」でなければならない。アメリカのユニットバスの空間は、開放感はあったが落ち着くものではなかった。個人的に最高のトイレ空間のサイズは、トイレ(便座)から左右約20cmほどのスペースがあり、前方は足を床に対し90度に膝を曲げる形で座った時、床から約15度ぐらいにまでは足を持ち上げても支障がないくらいの余裕のあるサイズである。この感覚で壁に囲まれることにより、安心感が生まれる。しかしその狭さの中で閉塞感を感じさせないためにも重要なのが天井の高さだ。これは、たまに「はぁ〜」と見上げた時に(意外と天井高いな〜)とちょっとした驚きを与えてくれる程度の高さがちょうど良い(天井はどのような空間であれ、高い方が好ましい)。そしてそれをまさに現実化したのが、私の住む家の、我が家のトイレ空間のサイズである。ちなみにこれが、この家に住む決め手となった、わけではない。

我が家のトイレは四方を囲む白壁に、ありとあらゆる紙片が貼り付けてある。それは何かのタイミングでもらった誰かからの手紙であり、美術館でとってきた展示案内である。それはいつか行ったライブの半券であり、いつか観た映画のチラシである。そういったものがペタペタと乱雑に下から上まで張られてある。つまりそこは家自体が狭い我が家の中で、ひとつの展示スペースと化している。

トイレで落ち着く人あるあるなのは、「トイレで本を読むと集中できる」説である。ズッコケ三人組でいえば、ハカセのようなタイプだ。ちなみに私は本の中でもNHKのドラマシリーズでもハチベエが一番好きだった。小学低学年の頃から主人公三人組に憧れ、(私も絶対あんな友達をつくるんだ!)と意気込んでいたものの、現実では放課後や休みの日に学校の友達と遊んでいるよりも、家に引きこもって図書館で借りた本を読んでいる方が楽しい(小学校の頃は1日に3冊ほど読んでいた)という、子供にしては何とも切ない結論に至り尚且つ素直に実行してしまったがために、ついに彼らのような集団は結成されず、私の小学時代は終わってしまった。ということで話をまたトイレに戻す。

私は実は「トイレ読書」には賛同できない。というか現実的に考えてかなりの疑問である。本を読むということはある程度の時間が要される。トイレ読書推奨者(そのような人がいるかは置いといて)は、おそらく1行2行の話をしているのではなく、何ページかは読むはずである。中には一冊読んでしまうという凄技を持つ人もいるかもしれない。ということは、少なからずどんなに読むスピードが速い人だとしても、数十分はかかるということになる。それはつまり、それだけ長い時間、そこ(便座)に座っているということになる。私の中でそれだけ長い時間トイレに滞在する=便座に座り続けるというのは、イコール腹を下している、ということを意味する。じゃあそんな状態で本を読むだけの余裕があるか。それは結構厳しいのではないだろうか。

きちんと読書に集中できる状態=腹も下していない全くの健康状態、と仮定した時、彼らはいったいどのような姿でそこに座り続けているのだろうか。まず第一に考えられるのは、<用を足さずに、ただ便器の「蓋の上」に座っている>という状態である。これであればなんとなく理解はできる。これはカフェが一番落ち着くからわざわざ本をカフェまで持って行って読む、という行為に近い。トイレが一番落ち着くし集中できるから本をトイレに持ち込むのである。この方程式であれば納得できそうだ。
第二案として、《用を足し、足しながらも読み、足し終わった後にもそのままの状態で座り続け読み耽る》という状態も考えてみる。単純にこれは…「気持ち悪くないんですか?」

人の趣味趣向はそれぞれなので、別に人がどういう状態でトイレで読書に勤しんでいるのかはどうでもいい話なのであるが、トイレ話の流れで前々から気になっていたので、ついでに書いてみたまでである。(いやあ、しかし気になる。)

さて、話を「狭」に戻そう。

狭いというキーワードからは多方面に話が飛べるのだが、今この瞬間ふと、映画「テイク・ディス・ワルツ」の主人公の女の姿が浮かんだ。

狭いという概念は、視覚としての空間的狭さだけでなく、心や精神状態にも使われる。映画の主人公マーゴ(ミシェル・ウィリアムズ)には結婚して5年目のルー(セス・ローゲン)という旦那がいるが、仕事の取材で訪れた場所でダニエル(ルーク・カービー)という青年と出会う。彼らはたまたま目と鼻の先に住むご近所さんだということがわかり、そこから関係が深まっていく。結局マーゴとルーは離婚することになり、マーゴとダニエルが結ばれることになるのだが、最後のシーンではマーゴの浮かない顔が大きく映した出され、そして映画は幕を閉じる。このシーンの描き方は、映画「卒業」と同じである。そこには端的に、結局人は物事に慣れる生き物であり、思い描いているような華やかな関係は長くは続かないことへの現実的示唆がたっぷりと描かれている。

マーゴはとても不思議な女だ。わかりやすく言うと気分屋とも言えるのだが、彼女は映画の最初から最後まで、どこにも誰にも属さず、常に浮遊しながら存在している(ように私には見える)。彼女は情熱的に人を愛すが、同時に誰も愛しはしない。あくまで自己中心的であり、しかしそれを彼女自身気付き「きって」いない。観ているとマーゴに対して苛立つ感情も湧き出てくるが、しかしそういう部分は私の中にもある。愛されるのが大好きで、愛することも大好き。だが同時に、愛されるのが苦手で、愛することも苦手なのだ。深く愛を信じているにも関わらず、しかしそのバランスがうまくとれない。それ故に浮遊する何かになってしまう。不器用な人間には、少なからずそういう部分があるのでないだろうか。

この映画は個人的に好みのため数回観たことがあるが、いつも印象的に残るのは同じマーゴの台詞である。マーゴがダニエルの家(画家である彼のアトリエでもある)を訪れた時のこと。どこか落ち着かずふわふわしている彼女に対し、ダニエルが「何をそんなに恐れてるの?」と訊いた時に彼女が答えた台詞だ。

"I don't like being in between things.”(何かの間に立たされるのが嫌なの)

この台詞は私にとって何かしらの意味を持つらしく、日常生活の中でもふと思い出すことがある。その言葉通りにとってしまうと少し解釈が変わってくるので実際に観てもらいたいのだが、映画全体を通すと、その「間」に押しやっているのは彼女自身であることも見えてくる。私が共感しているのは、まさしくこの点にあるのだと自己分析している。何かの間という「狭い」場所に押しやられることを嫌うのに、言動の全てがどうしてもその「狭い」場所に終着してしまうような仕組みになってしまっている。映画の中では、この描写にこそ、作品の美しさがあるとも言えるかもしれない。

これは「自由」の概念について言われることとも似ている。人は何のルールもない「開放的自由」を手に入れたいと思うが、最終的に落ち着くのは「囲まれた自由」という閉塞的な場所である。家族関係、友情関係、恋愛関係、全ての関係性において、人はこの行き来を繰り返し続ける。息詰まるという状態が、もしかすると1番安定した状態なのかもしれない。

この「思い込んでいる自由」と「真の自由」の行き来は、ループというよりも、どちらかというと上下の存在しない、左右にしか空間が開けていない狭い通路のような場所での行き来であるような気がする。じりじりとにじり寄られたり、迫ったりしながら、その閉塞的筒の中で駆け引きをし続ける。私たちがそういう場所=少なからぬ苦痛/不満の存在する場所でしか安定して生きられないのだとすると、やはり人間の根源にあるのはマゾヒズムなような気もする。

哲学者の千葉雅也がTwitterで、「生きること自体に苦痛があるのは当然なので、楽しく生きるにはマゾヒズムが必要である。(中略)現に生きて入られている以上小さいマゾヒズムは必ずあるはずで、それを拡張するしかない」と言っていたが、まさにその通りなのかもしれない。マゾヒズムとはまさに閉塞的「狭い場所」で私たちが感じる屈服した感情を転覆させる時に生まれる快感主義だ。同じく千葉雅也のフランシス・ベーコンの考察にも、マゾヒズムは本来罰を与えられているという目的対象から外れ、その罰を快楽として享受してしまうことで、法の中で法をひっくり返すことである、というようなことが書かれてあった。マーゴや、日常的に私たちがやっていることは、結局「閉塞的自由」空間にたどり着く。そしてその先にあるのは、法の中で法を覆した瞬間に生まれる、思いがけない快楽・興奮だ。私が狭い場所を好むのは、そういった底の方に敷かれたマゾヒズム的なるものを無意識的に理解し、それを拡張方向へ向かわせるためのエネルギーの構築の場であることを知っているからなのかもしれない。

ということで考え方もつられて狭まってきてしまっている気がするので、ここいらで再び解放し、私は呑み過ぎた焼酎(呑みながら書いていた)の行き場を探しに、私の一番落ち着く、我が家のトイレへ向かうことにする。あの空間に充満したマゾヒズムをひしひしと感じながら、天井を見上げて(意外と天井高いな〜)なんて癒されたりするのである。


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