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自分の信じる「正しさ」について

昨日、他者と共存するうえで考えたことについて書いた。

いま、家族で向き合っている課題がある。普段は楽しくゆるやかに過ごしていても、何か大切なことを決めねばならない場面では、いつもとは違うコミュニケーションが生まれるので緊張する。よいものにするために日々話し合うなかで、自分の信じる「正しさ」について考え直す場面がとても多い。

夫とひとつの家で暮らし始めたとき、ふたりのあいだにある文化の違いに大きく動揺した。愛をもって結婚したふたりでも、いざ暮らし始めると休みの日の使い方や、食事に対する考え方、家事のこと、趣味のこと、仕事への向き合い方、本当に枚挙にいとまがないほどたくさんの「引っかかり」がひそんでいる。

ふたりのあいだに衝突が起きるたび、何度も話し合う。うまくいくときもあれば平行線に終わるときももちろんある。そんな日はうまく眠れない。そうして何年も話し合いを重ねながら暮らしている。

なぜ相手が自分のことを理解せず、こちらを批判するのかがわからなかった。でもいま大切な決断をするために話し合うなかで、わたしの心に「わたしは正しく、相手が変わるべきなのだ」という気持ちがどこかにあるのではないか、ということに気がついた。

これは本当に自分で認めたくないことだ。自分がそんな未熟な人間であることを認めるのは恥ずかしくて耐えがたく、そんなことはないと思いたい。ただやはりどう考えても、わたしのなかにその気持ちが隠されていることは事実で、向き合わなければならないと思わざるをえなくなってきた。

自分が変わること、揺らぐことは、ひとを知り、かかわり、近づくための道のり。自分を愛し、大切にすることと、他者を想い、ともに生きていくことを両立するのはときにとてもむずかしい。わたしにとって家族のあることは大きな喜びである一方で、自分を知り、鍛えるためのもっとも大きなワークなのではないだろうか。そして「愛する」という言葉のさす意味はこんなにも体験を通じて変化してゆくものなのかと思う。

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