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他者の喪失体験のこと

近しいひとが昨日亡くなったと聞いた。近しいひと、と言ってもわたしはここ数十年は会っておらず、父や母からそのひとがどういうふうに暮らしているかを伝え聞くだけだったから、子どものころのわたしがときどき会っていたときの姿が、わたしにとってそのひとのイメージになっている。

父の大切なひとなのでわたしがあれこれ書くのはやめておくが、自分の心の動きや考えたことだけは書き留めておこうと思っていま書いている。

先日参加した「不老不死は可能か」というテーマの座談会のなかで、「ずっと会っていないひとがいたとして、そのひとは自分にとってどんな存在か?」という話があった。そのなかで、会っていないのなら、そのひとは自分にとって死んでいるのも同じで、たとえ訃報を知ったとしても気持ちは揺らがないという意見があった。

わたしはたとえずっと会っていなかったとしても、今回のように訃報に触れると心が揺れてしまうし、それが自分以外の誰かにとって大切なひとだったとしたらなおのこと、いろいろ想像をめぐらせてしまう。そのひとの肉体が目に見えてあるかどうかは大きく違うように思える。

わたしの心は手で抱えた桶のなかの水のように、つねにたぷんたぷんと揺れている。ひとつの思考実験だから、実際にそういう場面に遭遇したときどんなふうに感じるかは想像と違っているかもしれないのだけど、ものの感じ方、考え方は本当にひとそれぞれなのだと思った。それはつまりどんなに心を砕いても、相手の感じているように相手の心を想像するのには限界があるということだ。

想像力は妄想力でもあり、それに幻惑されることもある。美点にはつねに裏の面があって、バランスをとりながら暮らしているけれど、今回のように実際のできごとや他者の言葉ではっきりと目の前に提示されると、やはりはっとさせられる。

自分自身の喪失体験は耐えがたく苦しみをともなう。けれど近しいひとが喪失体験の渦中にいるときもまた、苦しみを覚える。そんなときに考えるのは、限界のある自分の想像力で相手にできることはなにかということと、他者の苦しみと自分の苦しみを切り分けることだ。

「助ける」とか「寄り添う」とか、そういう言葉は世の中にあふれているけれど、本当はそんなにかんたんにひとを助けたり寄り添ったりすることはできない。言葉は便利だが、その重さはひとの心と同じように、ひとによってさまざまだ。

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