海は永遠に広がり、その水面で希望を受け止めてくれる
今日は私信のような文章です。
昨日、想いがつのるのにまかせて書いた、この記事。
いつもとちがう文章で驚かせてしまったかもしれないです、すみません。自分の心のゆらぎがどういう形で生まれたがっているのか、慎重に見極めようとしています。できるだけ心に生まれた感触をそのまま言葉に留めたい。そう思いながら書いています。
ドキュメンタリーのように、変化していく様子に立ち会えることがうれしい、そんなふうに言われたことがあります。その気持ち、とてもわかる。わたしも同じように、誰かが葛藤し、悩みながら変化していく様子に励まされています。
ひとが悩みながら進んでいく姿はなぜあんなにまぶしく、いとしく、心を打つのだろうと思いますが、きっとそれは自分自身も日々葛藤し、悩んでいるからなんですよね。みんなそれぞれ自分の人生で悩みながら進んでいるのに、それは普段見えないから、出会えたときに感激してしまいます。
わたしは絵を描きますが、言葉も書いていきたいと思っています。自分の過去を振り返ったとき、絵と言葉は不可分にわたしのなかにあり、わたしはそのふたつを、長い(かもしれない)人生において、大切に抱いていきたいと思うできごとがあったからです。
じゅくじゅくとした、形になりかけている絵と言葉を外に出し、こうしてひとの目に触れる場所へ出すのはわたしにとって恥ずかしいことです。ひとが通りすぎる大通りのなかで一人立ち尽くすように、無力感にさいなまれ、さみしく、虚しいと思うことが多いです。
けれど、恐れているばかりではきっとこの人生はすぐに終わってしまう。
「未熟で恥ずかしいからやらない」ときのつらさと「やると決めたからやる」ときのつらさを思い浮かべます。イラストレーターとして、自分の絵を唯一の武器として社会に乗り込んでいくことは、臆病なわたしにとって葛藤の多いことでした。でも、進みたくて仕方がないのです、まだ見ぬ世界へ一歩でも近づきたくてたまらないのです。そんな衝動は抑えがたいものでした。
やると決めたあとの葛藤は、そうでないときよりもずっと大きいです。けれど、目の前に広がる世界は投げた石の数だけ変化していきます。へろへろでもいいんです、どんな放物線を描いたとしても、海は永遠のように広がっていて、その水面のどこかでかならず受け止めてくれる。
わたしは自分の投げる石に愛をこめ、希望と名付けたいと思います。それはひとを打つ石ではなく、ひとに届くまでのあいだに起こる災いに耐えられるようにつよく生成した石です。届いたあとにその堅い殻ははじけ、やわらかい音が生まれるものであってほしいと願っています。
自分の投げた石で水面が揺れる、その様子を眺めることができる、という意味ではわたしは幸福なのかもしれない。そう思います。
いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。