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誰かへの悲しみによせて

電車に乗っているときに、ふとある訃報の記事を見た。順風満帆に見えていても、そのひとが抱えている葛藤はずっとわからないままなのだろう。あとになって想像をめぐらせることしかできない。

すべて終わってしまったあとでなんの関わりのないわたしが想像をめぐらせても、そこにはただのっぺりと悲しみが広がっていくだけだ。

わたし自身、閉塞感と不安感をかかえながらなんとなく暮らしている。悲しい出来事が続いていると、詩や短歌の本を開きたくなる。栄養のつまった言葉がほしくてたまらなくなるのだ。

コロナの感染者が増えて外出自粛が始まったころは「なにかできることをしたい」と自分なりにできることに取り組んだけれど、思うように自分の感情を整理しきれず徒労感が残った。いまはもう対処療法的になにかをしたいとは思わない。無力感を感じながらも信じて続けていくことこそが大事だ。苦しいけれど。

いつか、誰かの悲しみが消える日が来るのだろうか。祈るような願いの込められた言葉や絵や音楽が必要なくなる日が来るのだろうか。そんな日が来たらと夢想してみるけれど、その日は来ないことをわたしたちは日々の生活をもって、そして歴史をもって知っている。

悲しみの消えない世界だからこそ作り続けることに意味がある。先日、西洋美術館で見た中世の絵は、画家が死んだ自分の妻と子を描き、彼女たちのそばで途方に暮れる画家自身とその息子が聖人たちに慰められるという構図だった。それを見たときに、わたしたちは何度も、何千年にもわたって、どうしようもない悲しみに暮れているのだ、と思った。

ここにいない誰かに手向けるのは、詩であり、歌であり、詩情のある絵だと思う。わたしが作りたいと思うものはそこにある。地味だし、流行らないし、いまの社会では広く価値がないけれど、一人一人使命のようなものがあるとすれば、わたしにとってこれこそ大切な軸なのだと思う。

そしてまた夢想する。わたしが死んだあと、投げ売りされる本のなかにわたしの本を見つけた誰かのこと。これは自分のための本だと彼女はそれを買って帰る。そのころ、本というものを買うのはもの好きなひとかもしれない。けれど、どういう形であれ希望をつなぐことができるなら、こんな世にひととして生まれてよかったと、いつかどこかで思えるような気がするのだ。

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