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伊勢日記 13巻(完結)

心のなかに聖域を作る必要がある。それは宗教という枠組みよりももっと根源的でごく個人的なサンクチュアリ。仏教で言うなら、自灯明のように自らをよりどころにしつつ、わたしの場合は法の代わりにさまざまな聖域ー神社、寺、植物、風景、ものに助けてもらうような。アニミズム的な感覚が、自分のなかにつよく根づいているのを感じる。

今回の滞在中も、たくさんのものに心洗われ、救われた。そのたびに共鳴する自分の聖域のありかを思い出し、自分のためにはぐくんでいかねばと思う。

どんなに好きな場所でも、いつか離れねばならない。それがさみしく思えるのは、見えない自分の心を頼りにして生きることが苦しく、心細いからだ。でも、たとえ目に見える場所から離れても、自分のなかにあるサンクチュアリを思い出すことができれば、洗いざらしの清々しい心にきっと戻ってこれる。

「暮らした」場所は、他の場所と比べて土地と体のつながり方が違う。来たばかりのときはふわふわしていた体は、同じ場所へ行くことでずいぶん落ち着いた。昔パリへ行ったとき、不安で不安で毎日マドレーヌ寺院に通ったが、毎日同じことを繰り返すことが、土地に心身をなじませる儀式のように効いてくる。

よく自転車で通った外宮近くのさざんかが満開。

たくさんの場所に連れていってくれた愛車(レンタル)。

帰りに市役所の立花さんが見送りにきてくださる。滞在中、いろいろな形でやりとりしながら、今回のワーケーションに対する立花さんの想いというか、決意のようなものを感じた。できるかぎりのことをしながら、走りきろうとするその姿に、わたし自身励まされるところがあった。

なにかを企画し、進め、完走することは本当に大変なことだ。信念を持って取り組んでいても、価値観のちがう周りのひとから共感を得たり、理解してもらったりするのはむずかしいし、ときには剛腕でいかなければいけないことだってある。

もちろん公的な機関の企画だから、個人の活動とはまったく別のものであって、比較するべきではないのだけど、どの場所であっても立場とは別に個人の心はあり、わたしはそこにつよくひかれる。

アートに救われたという話、町を作るうえでアートが欠かせないという考え方、行政とクリエイターが手を携えてより豊かな町を作っていくこと、立花さんの話を聞いていて心がつよく揺さぶられた。

不要不急のものであると言われる、何かを作るひとたちの活動や、作品は、その価値の評価の軸がとても貧しい。ただ遊んでいると思われることもままある。

「生活に必要でない」というのはいったいどういうことなのか。絵や、言葉、音楽、写真、映画、空間、建築、自分にとって大切な何かがあることで明日生きようと思える。そんな体験はたくさんのひとにあるはずだ。生きたい、と思わせてくれる何かが、わたしたちには必要だ。生きているからこそ、暮らしがある。その豊かな体験が、ときに不要だと言われてしまうことが心から悲しかった。

以前、真鶴出版へ行ったとき、町作りにおける「美の基準」があると教えてもらった。うつくしさは生活とともにある。そのことを今回の伊勢での滞在中にあらためて感じたし、市役所にいるひとのなかに、そういうことを考えて動いているひとがいるということは大きな喜びだった。

誰かにとって必要なものが誰かによって作られ、町や国が静かに満たされていく。ひとはせっかく感受性を持って生まれたのだから、消費だけでなく、たまには何かを味わう時間があっていい。分断を深めるのではなく、互いにかかわりあう世界。それは叶えるのがむずかしいみたいだと暗い気持ちになりながらも、そう願うことをやめられない。豊かな循環がこの先生まれてゆけばいいな、と。

ワーケーションで伊勢に来る多くの方が、安全に、すばらしい時間を過ごすことができますように。わたしもまた伊勢に行きます。

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