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さえないわたしは星野源になりたかった

年のはじめに一年の目標を書いた。3つあるうちのひとつが「星野源になる」という目標だった。

表参道の居酒屋でからあげを食べながら「わたし…星野源になりたいんですよ…!」と堰を切ったように打ちあけたとき、「そうなの?がんばれよ!」とまじめに言われたのは今年のはじめだっただろうか。もうずいぶん前のような気がする。

広く、純度の高いものを誰かに届けることができる彼のようなひとがいるなら、自分の小さな世界でやっていることなんて、ほとんどなんの役にも立たないのではないかと、そのとき絶望に近い気持ちに襲われていた。

ちっとも華やかではないいままでの人生、スクールカーストでは下か枠外であったし、容姿だって自信がないし、人脈を作るようなコミュ力だってある方じゃないし、舞台に上がろうとしてもきっと誰も集まらない。そんなふうに思っていた。

でも、個人のお客さまから絵の仕事を受けるようになって、すこしずつ考えが変わっていった。言葉を交わし、相手を理解し、なにかを届けることは、大きな収穫をもたらすものだった。

そして、みんなそれぞれに喜びと悲しみを心にたたえながら日々を暮らしているのがいたいほどよくわかった。とげとげしたところや、ぴかぴかしたところ、ふわふわしているところなど、いろんな自分をひとりの体のなかにたたえていて、そのありようがなんともいとしい、と思った。

わたし自身が自分に対する形容詞として使っていたような「さえない」ひとなどどこにもいなかった。「さえない」という言葉は、他者はもちろん、自分にも必要のない言葉だったのだと知った。

舞台のうえのひとは、たくさんのひとの白く明るい光に照らされているから、よりいっそう恒星のように明るいし、恒星のようになったそのひとは客席に向かってまっすぐ照らすから、客席のひともまたまばゆい光をたたえる。

そうやってひとに照らされ、ひとを照らしてみな暮らしている。どんな光を当てるかで、相手の見え方は変わる。そのひとが変化していなくても、赤く照らせば赤に、白く照らせば白に見える。

自分の体のなかで、光が乱反射している。透けて見える体のなかで、捕らえられたように光は、体のいたるところにぶつかりながらまっすぐに白い軌跡を描いている。あのひとのことがうらやましいという気持ちと、誰かからの愛の言葉を信じられない気持ちが出口をふさいでいるから、その軌跡はずっと途切れず体のうちに閉じ込められている。

いま、昔の自分に手紙を書くことができる。時間をさかのぼらなくたって、扉の奥に昔の自分はいる。扉の下の隙間に白い封筒をそっとしのばせて、自分の部屋に帰ってくればいい。

わたしは、星野源になりたかった自分を、愛をもって卒業する。おおかみの遠吠えが森のなかで共鳴するように、自分の声を信じ、天をあおいで声をあげたい。

わたしはわたしになりたい。そんなふうに思う。

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