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今日から”パラスポーツエバンジェリスト”になります。

こんにちは。まえゆかです。

3月15日付で4年9月勤めた(公財)日本財団パラリンピックサポートセンターを退職し、本日からパラスポーツエバンジェリストとして独立することにしました。

ここまで悩みに悩んだ時間があったからこそ、今はとってもすっきりした気持ちで前を向いています。
ちょっと長くなりますが、決意表明的なことを書いていきます!

パラスポーツエバンジェリストって?

仕事を辞めると決めたのは2月末頃。
何か仕事のあてがあったわけでもなく、漠然としていたけれど、心にあったのが「パラスポーツの魅力を楽しく語る人になりたい」という気持ち。

パラスポーツに出会ってからの日はそんなに長くないけれど、それでも魅力にどっぷりつかって、特にこの4年9カ月はパラスポーツのことばかりを考えていたし、パラスポーツの持つ可能性に私自身がどんどんと惹かれていった時間でした。

パラスポーツと聞くと、どうしても障がい者のためのものって思われがちで、普及に携わっていても無関心層にリーチするのはすごく難しいなと感じました。
これはパラスポーツに限らず、いろんなジャンルの人たちに共通する部分なんだと思いますが、特にパラスポーツに対しては自分ごとにならない人が多いと感じています。

自分には関係ない。

そんな風に思う人たちが圧倒的に多いけれど、私自身はパラスポーツを通じてすごく勇気をもらって、自分のエネルギーになったと感じています。
その気持ちをずっとぼんやり抱えていたけれど、きちんと言語化して届けていきたいと思っています。

社会人一年目に出会ったこどもたち

今でこそパラスポーツにどっぷりつかっていますが、私の社会人スタートは教師でした。
小学校教員として神奈川県の採用試験を受けて、大学時代にボランティアで関わってから興味のあった特別支援学校への配属を希望。
知的障害と肢体不自由の子供たちの小学部1年生の担任として社会人生活をスタートしました。

2年目の時に東日本大震災が起きて、私のいた横須賀市もかなり揺れました。一斉に停電し、信号機は動かないし、津波警報で海岸線は通行止めだしで、道路はパニック。

通常、スクールバスには運転手さんと教員ではない介助員さんが乗車して児童生徒の乗降をサポートするのだけれど、この時だけは非常事態として5台あるバスに2人ずつ教員が乗って、混乱する道路の中なんとか保護者に子どもたちを引き渡しました。

結果的に避難所に行くほどの被害ではなかったけれど、この時の経験から非常時の対応を考えることが仕事の一つになりました。

一向に答えが出ない

校務分掌でスクールバスを担当していて、バスの発車前に地震が起きていたらある程度の対応はできるけれど、もしバスの出発後、つまり運転手と介助員しかいない状況で災害が起きたときに、自力で移動したり、イレギュラーな環境が苦手だったり、発作があったりする子供たちの安全をどうやって守るのか? というのがすごく大きなテーマになりました。

被災地からは避難所に行けない障がい者の話や、避難所に行っても理解がなくて迷惑がられてしまうといった声を聞いており、教師として何をして、子供たちに何を伝えたら解決できるのか、考えても考えても答えが見つからず、いつも行きつくところは、地域の人の理解が必要、ということだったのです。

私がどんなに一生懸命、子供たちに言葉でのコミュニケーションを教えたり、非常時でも対応できるようにケーススタディやソーシャルトレーニングをしたところで、想定外のことは起きるし、彼らのコミュニケーションが健常者と全く同じようにできるようになるのはとても難しい。

常に教師や保護者と一緒に生活することも不可能で、どこかのタイミングでは地域の人にサポートをしてもらうことも想定しないといけなくなります。

教師として子供たちと関わる時間は本当に楽しくて、天職だと思っていたけれど、教師という立場だからこそ、関われるのは子供たちだけで、地域への働きかけをする立場としての難しさを感じるようになりました。

少しの理解と少しの努力で互いに歩み寄るようなことができないだろうか。そんなことを漠然と考えるようになり、研究の道に進むことを決意しました。

頭でっかちの私が出会ったパラスポーツ

大学院では障がい者アートや障がい者雇用、障がい者向けのファッションなど幅広くフィールドワークに出かける中でパラスポーツにも出会いました。

当時、重度の障がいのある子どもたちと一緒にいたこともあり、私は「障がいのある人たちを守ってあげないと」と強く思っていました。
自分が、彼らのためになんとかしてあげないと、といった強い正義感を持っていました。

今思えば、これはすごい驕りでした。
とっても、頭でっかちでした。

彼らをずっと弱い存在にして、彼らのできることもすべて奪ってしまう考え方をしていたんです。

それに気づかせてくれたのが、パラスポーツでした。

車いすテニスの試合会場でのこと

ボランティアで参加して初めて観戦した車いすテニスの国内大会。
車いすに乗っているのは見ればわかりますが、そんなことをつい忘れてしまうほどのスピード感と迫力。

元々野球部のマネージャーをしていて、スポーツ観戦が好きだった私。
一気にその迫力とかっこよさに惹かれました。

なんだこれ。
選手ってこんなにすごいのか。

自分が頭の中で描いていた障がい者像と目の前にいるアスリートの生き様があまりに違って、ものすごく動揺しました。

さらにこの時、国枝選手も会場にいたんです。

私はミーハー心丸出して、2ショット写真を撮ってもらったのですが、近くにいた車いすに乗った少年が、「いつか慎吾君を倒す!」と話しているのを聞いて、スポーツが夢になるということも当たり前のように気づかされたのです。

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当時の私は、障がい者のことを考えているつもりでも、その中にいろんなタイプの人がいることをすっかり忘れてしまっていました。
私たち健常者の中にも、いろんな性格や体格、バックグラウンドを持つ人がいるのに、障がい者というだけでなんとなく全部、守ってあげないといけない人だと思い込んでいた自分の浅はかさに気づく大きなきっかけをくれたのが、パラスポーツだったんです。

いつの間にか、自分が励まされていた

その後、加速度的にパラスポーツの魅力にハマっていった私。

縁あって大学院生でありながらも、日本財団パラリンピック研究会の研究員になり、仕事も相まってさらにパラスポーツ熱に拍車がかかり、その後2015年7月からは日本財団パラリンピックサポートセンターの職員に。

当時、競技団体の仕事を本業にしている人はほとんどおらず、強化・普及の面においてはお世辞にも環境が整っているとは言えない状況で、その部分を支援する事業を担当しました。

ファンとしてパラスポーツを追っかけていたからこそ、情報の少なさ、整備されていない状況にもどかしさも感じていたため、まさに自分の経験を活かせるフィールドだと思っていました。

アスリートのことをもっと知りたい、競技団体の力になるには何をすればいいのか。

ちょっとでも寄り添えたらと思って様々な試合やイベントに足を運んでいるうちに、ある時気づいたんです。

あれ? 私が励まされてる?

彼らの試合に「がんばれ!がんばれ!」と言っている時にふと思うのです。
障がいによってできないことはいくつかあるけれど、それをものともせずに競技に打ち込む選手の姿。
できない理由じゃなくてできる理由を捜せって、彼らが背中を押してくれているような気持ちになっているなって。

それまでの私は、いわゆる優等生タイプで。
失敗することをとくかく恐れて、安全に安全に石橋をたたいて渡るタイプ。
ちょっとでも揺れを感じたら、叩いただけで辞めてしまうようなこともしばしば。

私自身が健常者だからこそ、「○○ができて当然」という暗黙のルールに対して苦しさを覚えていたり、できなかったらかっこ悪いと思って端から挑戦することを諦めていたり。

でも、彼らの姿を観ているうちに、「やってみなきゃわからない!」「ダメなら別の方法だ!」と前に進む気持ちを自然と持つようになっていたんです。
自分で自分に作っていた制限を突破する力を彼らから受け取っていることに気づいたのです。

魅力を伝えたい

私自身が、パラスポーツに出会ったからこそ得られた大きな気づき。
パラスポーツが伝えてくれた魅力。

こういったことをもっともっと広く伝えていきたいと思うようになりました。

パラサポ内部のスタッフも、立ち上げ当初は、まもともにパラスポーツを観戦したことがない人たちばかりだったからこそ、支援する私たちこそがパラスポーツを知って、好きになって、盛り上げていかないと!と使命感を持っていました。
スタッフを半ば強引に試合会場に連れて行き、隣で解説するという荒業を繰り返しました。少しは、良い効果があったかもしれません。

それでも、少しずつ自分自身も組織も変化するからこそ、組織だからできることと個人の中でのやりたいことのズレというのが、4年9か月の間に少しずつ開いていきました。

2020年の大会本番を間近にしたときに、私が組織でできることというのは何なのか? を考えるようになりました。
何も貢献できなければ、迷わずに辞めることもできたと思います。
迷ったのは、やっぱり組織にいるからこそできること、というのがとてつもなく大きかったからです。

それでも、独立しようと思ったのは、やっぱり私はパラスポーツが好きだったから。

ひとりになったら、パワーはものすごく小さくなると思いました。
でも、一人になるからこそ誰のフィルターも通さずに、私の目で見たことを私の言葉で伝えて、私の足と手で活動を作ることができる。

マスに働きかけることはできなくなるかもしれないけれど、ファン度10%を10人作るよりも、ファン度100%の人を1人作るような関わりの方が、きっと私には合っている。

そう思って、自分の道を進むことを決めました。

どうなるかなんて、わからない。
でも、これからはまっすぐに、パラスポーツが好きだということと、パラスポーツの楽しさ・魅力を伝えていきたいと思っています。

うまくいかなければ、うまくいく方法を考えます。
それをパラスポーツとパラアスリートが教えてくれたから!


photo by kanamin

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