他人を笑う人は、自分を見下している

自分が何者であるかを知るためにまずは型を身につけるのだ

型を身につける過程で、自分はこれが好きで嫌いで、これが得意で苦手で、こんなことを感じ、心の動きを知り、自分の身体がどのように反応しどのように動くのかを目で見て、体感をし、自分の身体の存在を知っていく。

身体と脳と心と魂をひとつにつなげていく作業だ。

それがある程度まで行くと、思春期のように、世界へ飛び立ちたいのだとばかりに、自分を表現したい!と本能が疼くのだ。


自分が何者であるかを、知ることは、時に弱く惨めな自分とも向き合わねばならず楽しいだけでは決してない。

だからこそ、自分で自分を鼓舞することも出来れば客観的な視点を持つことも出来る。

何かひとつのことに打ち込んできた者だけが持ち得る強さを、目を、存在感をその身に宿すのだ。

何にも打ち込めないということは、

自分が何者であるのか知るのが怖いのだ。

がっかりしたくないのだ。

だから人と自分とを比べて自分を卑下したり相手をジャッジする。

そんなことをしている場合ではない。

しかし、がっかりしたくない、その気持ちの反対にあるのは

自分を信頼したい

という思いなのだ。

それがあるならば、大丈夫、そのまま進むといい。

初めの一歩は怖いことだろう。

だが、心配には及ばない。

何よりも、誰よりも身近に私という唯一無二の存在がいるから

それを、それだけを信頼するのだ。

まわりの意見や常識なんかじゃない。

自分を信頼できるかどうか?それだけなのだ。


他人の頑張りを見て汗まみれになってダサいなどと思って笑っているのだとしたら、あなたの心は泥にまみれて泣いているのだろうと思う。
本当は汗まみれになって頑張りたいと思っているのではないか?
それが出来ないのは、ただ自分が信じられないからだ。
それを知りたくないから他人を見て笑うのだ。

いい加減にしろ!と私は喝を入れたい。

一体いつまで自分に甘えているんだ!
一体いつまで自分を笑うんだ!
一体いつまで自分を卑下するんだ!
一体いつまで自分をナメてるんだ!
一体いつまで自分をいじめてるんだ!

自分を信頼することを放棄してはいけない。

自分への信頼を放棄するとは、恐らく自分を殺すことと同義だ。

恐ければ恐いほどに大輪の花を咲かせられるはずだ。

信じろ
信じろ

自分を信じろ!

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