【ペンネームの由来】私の名前には由来がないのだそうです。
小学生の頃から国語と音楽の授業が大好きでした。
古文は苦手だったけれど、教科書に載っている物語を一節ずつ紐解いていく授業が好きで、人それぞれの感性に寄り添って、明確な答えを出さない曖昧さにとてもワクワクしていたのを覚えています。
ちなみに苦手な科目は数学です。足し算、掛け算、割り算以外、学ぶ意味がわからなかったし根本的に数字が苦手でした。大人になってから接客しかしてこなかった私は、お会計の時に計算するくらいで、堆積を求める計算なんてしたことありませんし。
おそらく小学校低学年の頃に国語の授業で
「自分の名前の由来」について作文を書きなさい
というお題を出されたことがありました。
私は下校をしてすぐに作文用紙を片手に両親の元へ向かいワクワクしながら自分の名前の由来について聞いてみると、まさかの答えが返ってきたのです。
「由来か・・・由来ね・・・ないかも」
・・・・・・・・・・えっ?
・・・・・ええっ?
「自分の名前の由来」
というとても書きやすい内容なのに急に出鼻を挫かれ、何より名前に由来がないことがショックで少し落ち込みました。
よくよく話を聞くと、まず両親で語感と響きだけで良さそうな名前を書き出し、それをお世話になっている神社の神主さんに画数や相性を見てもらい決まったのだそうです。
しかしながら名前を決めるにあたって神主さんから最後に「これだけは注意して」とこんなことを言われたのです。
「姓と名の漢字はそれぞれ良いんだけど
全体で見ると良くはないんだよね。
まぁ女の子は結婚して姓が変わるから大丈夫か」
ここでアラサーの立派な大人になった私から一言
私いまだに結婚してねぇのですよ!!
なんかすみません!!
なんかとっても複雑な気持ち。
ちなみに余談ですが私の兄の名前は「達矢」
某有名野球アニメに出てくる双子から来てます。
これまた安易なと私は思いました。
・・・世代ですね。
名は体を表すとよく言いますが、私の名前はなんだか着地点がなくずっと浮遊しているようで、私の人生を振り返ると確かにそんな人生を辿っていたような気がするなと、今になって思います。
幼少期から何かに熱中したことがほとんどなく移り気で飽きっぽい性格。
私が幼稚園の年長になった頃から、両親の勧めでいろんな習い事をしていました。ピアノ、習字、水泳、学習塾、町内会のスポーツチームにいたこともあります。自分で習いたいと言ったこともありましたが、ほとんど親に言われてやっていたこと。
「とりあえず小学校を卒業するまでは続けなさい」と言われ、どれにも熱中できなかった私は、卒業とともにすべてきっぱりと辞めました。
もちろん、どれも6年以上習っていたので、ピアノで培った音感や、水泳で培った肺活量(そもそも溺れない)などは、今でも役立っていることもあるので良い経験だったと思っています。
自分の意見よりもまわりの意見に流されやすく、前に立てと言われることが何より苦手。小学校の高学年になると自ずと登下校の班長になりますが、それすらも私は苦手でした。
そんな自分を隠すために見せかけのしっかり者を演じて、いつも第一印象は「真面目でしっかり者」親しい仲になってからは「おっちょこちょいでふわふわしてる」とよく言われます。
O型なのにA型みたいと言われるし、自分の部屋は散らかっていても、学校や職場のロッカーは綺麗に使うタイプ。
名前を付けてくれた両親には感謝をしていますし、名前に縛られてきたとは思っていませんが、思い返せば”そうなっていた”のかもしれません。
というよりも、名前に縛られていないことに縛られていたのかもしれません。私は生きることの意味やその道標をずっと探していました。
私の大好きなアニメ「文豪ストレイドッグス」
の主人公である中島敦くんは言います。
”人は誰かに『生きていいよ』と言われなきゃ
生きていけないんだ!
そんな簡単なことがどうしてわからないんだ!”
まさにそう。
この世を生きることの許しを与えるために名前をいただけたとしても、そこに意味がなければ道標とはならないのです。『生きていいよ』と言われているようでそうではない感覚。ずっとそんな感じ。
でも逆をいえば道標がないから生きていられたのかもしれません。
昔からそんな曖昧で答えのないことにばかり考えて、自分の感性に寄り添うことができる物事に魅力を感じられていたことも、この名前のおかげかもしれないとも思っています。それは同族意識なのかもしれませんが。
大人になって自分の足で歩み始めた私は、自分の意思でいろんな居場所を選び、それに適した”私”というものを作り上げました。例えばスタジオカメラマンとして働く私や、こうしてnoteで文章を綴る私。
そのどれもが”私”だけれど”自分”ではありません。
”自分”が存在であるならば
”私”はそこにいるための代名詞。
自分を変えることは決してできません。
それは生まれ持ったものであるから。
でも”私”という代名詞を変えることはできる。
つまりは生き方を変えることはできる。
昔からニックネームやペンネームというものに憧れを持っていましたが、SNSやゲームに使う名前は、これまで自分の下の名前をそのまま使ってきました。そこには明確な理由はありませんが、私は不器用な人間なので、どこにいる”私”も”自分”でありたかったし、そうやって生きることが少し苦手なのだと思います。
それでもコラムを書いているこの居場所はちょっと特別で、ここでみなさまにお届けしていることはすべて自分自身であって、その思考であって、それをnoteという居場所にいる”私”を通して綴っています。それは限りなく自分に近い”私”なのです。
他のSNSではローマ字で「yuka」という名前で登録をしていますが、ここでは漢字の「由佳」を使っているのもそういう意味が込められています。
本当はフルネームで名乗ろうか
って考えていたんです。
でもそこで神主さんの言葉がよぎったんですよ。
「姓と名の漢字はそれぞれ良いんだけど
全体で見ると良くはないんだよね。」
この名前で二十数年生きてきたので、名乗ることに対してなんとも思っていないのですが、名を売るとなると話は違うわけで。
ここでちょっと安易なこと言っていいですか?
フルネームで漢字表記のペンネームって
なんかカッコいい!
私がずっとずっと思っていることです。
これまで下の名前を使って執筆してきましたが、いつかはそんなペンネームを作りたいなと。
noteを本格的に始めて数ヶ月。
私は昔から感覚で生きる人間なので、思いついたが吉日なわけですが、なんとなく今日な気がしたのでお知らせさせていただきます。
とくに特別な日でも区切りのいい月初めでもありませんが、今日から改めてペンネームを名乗ることにいたしました!
名前を丸々変えてペンネームを作ることはしたくはないので、苗字を本名ではなく新しい苗字を考え、込める意味や、画数診断や響きの良さを鑑みて、やっとペンネームが決まりました。
花崎 由佳(はなさき ゆか)
苗字は「花が咲く」という意味を込めました。
そして由来はないと言われてきた私の名前ですが
調べてみるとそれぞれの漢字に素敵な意味があったのです。
「由」は拠り所
「佳」は優れて良い、美しい
言葉を綴ることで誰かの拠り所となり
心に美しい花が咲きますように。
我ながら良い名前を付けました。
ちなみに画数診断では総格、外格、人格が大吉。
いやはや・・・良い名前だ・・・
我ながら大満足でございます。
急なお知らせ且つ
長い文章にお付き合いいただき
ありがとうございました。
改めまして
これからは花崎由佳として文章を綴って参ります。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
花崎由佳
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