見出し画像

<私が私である意味>を問う

 これまで長い間、私はなぜ、私として生まれてきたのか、という疑問を自分に投げかけ続けていた。

 アメリカ育ちの祖父を持ち、日本という国に生まれ、比較的、恵まれた環境で、ゆっくりと過ごしてきた。2019年には2度、海外に出かけ、コロナの問題が始まると、今度はひたすら引きこもった。IT環境には問題なかった半面、私自身はひどくゆっくりとした人間で、子どものころから、何をするにも、ほかの人の2倍くらい、時間がかかっていた記憶がある。

 2018年ごろから、大量の情報が入ってくるようになってきていた。2019年には、スピリチュアルの情報が入ってきたり、世界のあちらこちらでばら撒かれている「フェイクニュース」に関する情報も入ってくるようになっていた。

 英語の勉強をするつもりだったはずが、ふとした気の迷いから心理学科に進み、大学院に進学した。英語も決して嫌いではなく、高校生のときには、ハリーポッターを英語で読み、映画は英語字幕が当たり前。大学生になると、一時的にジョニー・デップの映画の英語字幕版を鑑賞するという遊びも日常になったし、その後、ダイアナ・ウィン・ジョーンズに出会うと、一気にイギリスファンタジーに傾倒した。

 欠点もたくさんあった。アトピーに苦しみ、不本意ながら辞めた仕事もあった。歌うのが好きなのに喉が弱く、ダンスが好きなのに三半規管は極端に弱い。そんな欠点が気になって、好きな道へ進むことを諦めたのは、ずいぶん前の話だ。

 政治のニュースを見るのが嫌いだった。たいてい、苛立って終わるだけだからだ。どうして世界はもっと仲良くできないのだろうか。だれかが自分の利権を求め、ほかの人が被害に遭う。そんな社会が嫌いだった。

 2019年。アメリカと中国が経済戦争に入る。未だに、本当の意味では終わっていない世界大戦だ。資本主義か共産主義か。民主制か独裁か。背後に潜む支配者はだれか。何を求めているのか。

 様々な利権がぶつかり合う社会で、本当に平和を求めるには、人々の考え方そのものが変化する以外、ない。おそらく、他者の幸せが、そのまま自分の幸せに繋がる、という考え方が当たり前にならない限り、こういうぶつかり合いは終わらない。

 今ある各地の宗教は、それはそれで、意味があると思う。イスラム教は現実主義で、中東という地域の性質には、非常に適している。ある意味、イスラム教は立法型宗教だと思っている。大切な水を粗末にしない、直射日光から女性の肌を守る、などの意図が明確に存在する。キリスト教や仏教も、それぞれ多くの文化を残してきている。信者たちの心を救うためにも、大いに意味があるだろう。

 とはいえ、それを伝えてきた人々の解釈は実に様々で、各地で戦争や問題を起こしてきたのも事実だ。だれが開祖であるとか、そんなことが問題なのではない。唯一の神を信じることが問題というわけでもないと思う。

 隣人を愛せよ、というキリスト教の教えも、経典の民は仲間である、というイスラム教の教えも、実際に守るのは難しかったのだろうか。

 私は5歳のころから、宗教に関心を持ってきた。明らかに、日本人としては、標準的とは言えない。当然、これには私の出生が影響を与えている。私が最初に葬儀を経験したのが、そのころだった。

 今年5月。誕生日を迎えた私に、声をかけてきたのは、スピリチュアリストの女性だった。彼女の影響で、スピリチュアルの世界に接して、魔女会議(実際の名称は、まったく異なるが)で様々な話を聴くうちに、精神世界の広さ、深さを知った。魔女たちは事実、存在し、21世紀の現代も、ただの占い師ではなく、Zoomやネットを利用して、現実に活動しているのだ。

 私自身がスピリチュアルに縁のある人間だとも言われた。サンゴの橋の絵を受け取り、私は少しの間、自分で絵を描いていた。

 私が初めて、「自分は世界平和に貢献する」というインスピレーションを得たのは、いつだっただろうか。ずいぶん前のような気もするし、かといってそんなに昔(中学生とか高校生とか)ではなかった気もする。

 私は独自の宗教観を持っていて、それは宇宙とスピリチュアルの世界に繋がる。

 この発想を表に出すのは、結構、怖いと感じる。いろんな宗教を信じる人たちが世の中にいて、それぞれ、自分たちが信じているものを絶対だと思っている節がある。私の考え方は、そうした宗教のベースを否定せず、その一方で、世界は繋がっていると伝えるものだから。

 日本という場所は、ある意味、寛容なのかもしれない。その点では、私は自分が育ったこの環境にも、意味があったのではないかと思っている。

 もちろん、こんな話をいきなり公に出したからといって、すぐに私の話を聴こうとする人が、たくさん現れるとは思わない。だけれども、この考え方は、だれかと争うという考え方を、根本的に覆す力も秘めていると信じている。

「平成の天皇陛下は、平和だけを願ってきた聞きました。天皇陛下とほぼ同じ形で、むしろ天皇陛下より平和を願うスペシャリストなのかもしれないです」

 これは私が誕生日プレゼントに受け取った、私に関するメッセージの一部。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だけど、私が平和を願っているのは事実だ。

 挑戦してみようか。この争いの時代に、私が動かなくて、どうするんだろう。ただ、私にはリソースが足りない。そこに専念するために必要な応援もない。

 できるか不安になるけれど、なぜか高まってきているエネルギーを抑えられず、とりあえずここに残してみる。

 いろんなことを隠して生きていた。だけど、そんな必要はないのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?