接続詞に着目している本

今回の感想文の対象はこちらです。

 最初に前提として、本の感想を書くのに批判する意図があったわけではない。このようなキャンペーンを行う以上、当然、本の宣伝になることを期待しているだろうし、私もそのつもりでいた。
 筆者自身があとがきで「一般書として難しくなることを恐れた」と記載しているとおり、難しい部分があるが、どちらかというと本文や内容が難しいのではなく、選択された例文との兼ね合いによるものだと思う。
 小難しい、あるいは考えさせるような引用文が使用されているために、いちいち止まってしまうのだ。本筋の内容だけなら読みやすく、一気に読めたはずだが、たびたび止まって本を置いてしまう。接続詞だけでも流れを止める働きがあるので、なおさら時間がかかったのかもしれない。

 お堅いタイトルがつけられているし、接続詞の分類や意味を改めて説明されなくても、私たちは学校で文法の授業を受けているし、ある程度は無意識に接続詞を使い分けている。この本に興味を持つ人は、文章を書く人、という前提があると思われる。
 この本では、具体的な接続詞と例文をセットで挙げながら、接続詞の役割や、接続詞を使用できる文、文章、それに口頭表現について解説している。

 漢字・かなの使い方に少々、違和感があり、最初に誤って読んだときに止まってしまった。何か引っかかる。少なくとも、私とは違うタイプの書き手だろう。
 読み進めていく中で、選択されている例文に違和感が出てくる。毎日新聞からの抜粋は見られるが、ほかの新聞は用いられていない。小説など、読みやすいものも含まれてはいるが、政治的な文章などもあり、人物や背景を知らなければ文脈を理解できない内容の例文もある。
 歴史的に非常に有名な人々ならともかく、海外の、たとえばアラファトなどを例文に提示すると、出版された年から離れるにつれて、理解できる人が減るという現実を無視している。だれもが簡単に文脈を理解できない例文は、日本語そのものの説明をするのに、ふさわしくない。例文にいちいち気を取られて、肝心の接続詞に集中できないと感じていた。

 接続詞の使用といえば、人それぞれの発想の違いや、常識の違いが大きく影響する。著者と私では常識が異なるらしく、合コンと結婚相談所の例文は、最初の部分と接続詞だけの状態で提示されたとき、まったく別の後続内容を想像してしまった。異業種交流会やビジネス関係のイベント、習いごとの場、地域のボランティアから国際交流のようなパーティーなど、人と出会える場所はいくらでも存在するが、年齢もバラバラで、結婚を目的として集まっているわけではない等々、といった内容だ。合コンに参加した経験がなく、自然な出会い以外の出会いで連絡が続いた試しもない私には、とっさに結婚相談所が浮かばなかったのかもしれない。
 ただ、本が出版されてから年数も経ている。時間が経てば社会も常識も変化するものだ。日本人には、どこか「言わなくてもこれくらい常識」といった面があったかもしれないが、個人の時代において、従来の接続詞の使い方がそのまま理解されるかどうか、私にはわからない。花といえば桜、といった和歌の世界の特別な世界観は、学校で習わない限り、現代人には通じないだろう。

 例文が悪いだけで、本筋の内容を否定する気はない。きちんと接続詞の説明自体はされているし、接続詞の使いすぎに対する注意なども書かれている。おおむね理解できる内容だった。
 少々本筋を離れていそうではあるが、話し言葉の接続詞の項目はおもしろかった。この話し言葉の項目で、問題のある接続詞の使い方が列挙されている。どちらかというと人間関係に関する本に書いたほうがしっくりくるが、一応、接続詞の話はしている。個人的には人間関係のほうが気になってしまった。
 一か所だけ謎が解けないので、その点について記載しておきたい。接続詞を使ううえでの弊害として、文間の距離が近くなりすぎる、と書かれているが、例文と周辺の内容を読む限り、文間の距離が近すぎると使用に違和感がある、あるいは多用するとリズム感を損なう、という内容ではないだろうか。いくつか接続詞を試してみたが、文と文の距離がより近づいた、という印象は受けない。それよりも、接続詞がしつこい、必要ない、という感覚のほうが強い。
 同じ箇所の接続詞についての解説で、3の直前に「そして」などと書いているが、一方で4の部分に「接続詞が入りやすくなっている」という記述があるのも、よくわからない。読んでいない人には理解できない表記になってしまうが、個人的には4に接続詞が入る、というほうが、納得がいく。

 生意気なことを書いたが、接続詞の使用が難しい、という事実は認める。使いこなすためには、相応のトレーニングが必要で、特に会話における使用の難易度は高いと感じる。例文に登場した詩における「それで」や、夏目漱石の作品などに登場する「そして」など、実際に自分が文章を書くときに使いこなす自信のない部分もある。日常的に使っている日本語であるにもかかわらず、この前も出版部の校正担当者から、接続詞の無駄な使用をいくつか指摘された。
 小説で「しかし」を使うな、こそあど言葉を使わないほうがいい、などという指導を受けたこともあるため、接続詞や文末に注意を払わないわけではないが、私はまだまだ修行中だ。

 説明的な本の主要な内容は、それが知られている限り、だれが書いても同じような内容になるものだが、例文の選択は違う。引用される文章には、著者が普段、何を考えて生きているのかが現れると思っている。
 このような場で、新聞、純文学、法律や学術的な文章などを引用するのは、普段からそのような文章ばかりを読んでいるのか、あるいはそのように周囲から見てほしいという気持ちが隠れているのではないか、と疑問が湧く。
 小難しい表現になってしまうと、感覚的な人から敬遠されるのは、私も理解している。本筋の内容が難しい場合はともかく、そうでない場合についてまで、文章をやたらと難しく書く必要はない。
 私自身は校正資格を持っているわけではないが、事前の文章の組み立てなどを見ている。自分が文章を書くときはもちろん、チェックを行う際にも、必要以上に難しくなっていないか注意を払っていこう、と改めて思う。

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