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ぼくのノンバイナリー感/観について🏳️‍🌈🏳️‍⚧️

あくまで、ぼく個人の、ぼく自身の性自認の感覚や見えている世界観です。

「今現時点で」のぼくはこんな人間です。
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ぼくは、AFAB(assigned female at birth )です。
性自認は、今までノンバイナリーだと思ってはきましたが、ノンバイナリーがしっくりくる時もあれば、トランスマスキュリンがしっくりくる時もあります。

ぼくのノンバイナリー感/観は、

「試行錯誤してみたら結果的に今の世の中に存在しうる何かと照らし合わせたら、」
女性ではなかったし、男性でもなかった。
それが何かはわからない。あえて言うならかっこいい系。です。

そもそも、この世の中は性別二元論的なことが多くあり、それにあらがうあり方をしているため、明確に表すことなど難しく、あえて男性的/女性的と表すことは本当はしたくないが、多くの人に伝わる言葉が存在していないので便宜的にこの表し方をしていることをご了承ください。

自分をなにか一言で表せと要求される文脈においては、最近はジェンダークィアです、とも言うようになった。クィアという単語は、今も昔も蔑称として語られてしまうものでもあるが、当事者が使い、語り直しをすることでその人の生活史を編み直し、アイデンティティとするという役割を担ってもらっている。

自分の性表現は、女性的であるとされるものよりも、男性的であるとされるものの方が自分の中で居心地がよい。

一人称は、場にもよるが「ぼく」を使いたいと思っている。「あたい」という歴史的には性別関係なく使っていた一人称があると知った時、使いたいと思ったし、試行錯誤しているが口馴染みがなく上手く行っていない。

ちなみに、幼少から自分の性的違和を感じていた、そして中学生になり制服という、耐え難いものに直面してしまったので、考えた末に「俺」という一人称を使っていたことがある。しかしながら、自分の中でしっくりくるものではなかった。一つには、自分の性格的に俺、ではない、そして、男性になりたい、とは思っていないことも関連しているだろう。

自分は本名の名前はとても気に入っているので、変えようとは思わないが、本名ではない名前でなにか活動する時には男性的な名前をつけるだろう。あるいはどちらとも取れない名前をつけるだろう。「春野昼寝」のように。

スカートなどの、所謂世間一般的には女性的と言われる服装などについては、ファッション的に身に纏うことはあると思う(最近までやめておこうという意識から遠ざかっていたが、だんだんとファッションとしてなら楽しめるのではという感覚がある、試してはいない。)

ノンバイナリーとは関係がないが、最近は、自分に対する強い抑圧感から認められなかった、女性を好きになること、がやっと認められるようになってきて、ようやくパンロマンティックと思えるようになってきた。

という世界で生存しています。
セクシュアリティというものは、流動的であるものだし、そうあっていいものなので、今後も揺れ動いていくと思います。

過去の自分を辿り、過去の自分と対峙し編み直してみるということをしてみると、自分はこの時実はこうだった(が抑圧されすぎて気づくことができなかったのか)ということがいくつもある。
変化していくことは、時に自分自身であってもかなり怖いものである。そこまで生きていた歴史を少しずつ軌道修正することはどんな場面でも当たり前ながら、それをすることによって、必死に、崩れそうになりながら脆い何かを保とうとしていた過去の自分に対して、変化を与えることになってしまう、そして、その自分によくがんばったと労う気持ちときつかったよね、と認める気持ち、ごめんよと思う気持ちが重なり合い、何がそうさせていたかを分析した時、その全てが大きな力となり、自ら崩しに行ってしまいそうになる。それは自分にとっての生活史の否定の一種に近く、ぼくはすくなくとも怖いし辛い。

だが、変化がなされたとき、その時の一番自分に素直な状態になることができるという面もある。

いつかのライブで米津玄師も「人は変化していくものだし、それを恐れなくていい」という話をしていたではないか。そうだと自分に言い聞かせよう。

そんなわけでどう文章を終わらせていいのかわからないが、今のぼくについて書いてみました。そんな人もいるんだなと思ってほしいです。おそらく、重なり合う部分はあれど、セクシュアリティにおいては、同じアンブレラの中にいても異なった感覚をみなそれぞれその人なりのもので持っているはずなので、それはそれだし、なにより正解なんてないし、真の〇〇とかは存在していないです。ただのいち事例として見ていてください。

春野

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