見出し画像

創作には質のいい孤独が必要という話

前回の記事に分不相応なほどに評価をいただいており大変恐縮ですが、それはきっと私の言葉の如何ではなくて、引用させていただいた作品の力に他なりません(平身低頭)

記事冒頭でご紹介したのは、持田あき氏による短編連作集「スイート・ソロウ」 2巻に収録の『夢の夢こそ』という漫画作品の一節です。
恋愛漫画、という固定観念を取り払って、全ての創作者の方に読んでいただきたい珠玉の台詞とモノローグ
この漫画から貰えた、はかりしれない勇気への感謝をこめて(公式様に大変申し訳ありませんが、一部画像引用も含みつつ)ご紹介したいと思います。
結末は記しませんが、微妙なネタバレも回避されたい方はこの画面を閉じていただくか、ぜひとも先に出版社公式漫画アプリ、またはコミックスをご購入・ご購読くださいませ。

<本題の前に>
基本はテニプリの二次創作をする(ために、それ以前の思考の整理とか創作所感を書き散らしてるだけの)人なので、次回からは偏向解釈に戻る予定です。こういう他作品のレビュー的な投稿はおそらくこれっきりです…すみません


スイート・ソロウVol.4 「夢の夢こそ」

『夢の夢こそ』の主人公、純名早苗は、幼い頃から「変わり者」「まともじゃない」と親や同級生などからも遠巻きにされ、脚本家として成功してからも一人つつましく孤独に生きています。

しかしはたして「まとも」とは、どういうイメージでしょうか。
精神的・社会的に自立していて、常識的で、時勢や流行に敏感で、多数派の流れに上手にのることができ、人を混乱させたり不快にさせるような言動もなく、分け隔て裏表のない丁寧な対応ができて、楽しそうな仲間に囲まれている。
SNSでは交流大手、神作家、インフルエンサーとして華やかな世界の側にいるような、「孤独」とか「さみしさ」とは対極にいる人のイメージです。

Twitter / Xをはじめとした多くのSNSでは、それがあらゆる数値として目に見える。特に個人の価値観や思考回路が可視化されやすいTwitterでは、「フォロワー数やいいね数の多さ=対人スキルもSNSスキルも高い=人としてまとも」というイメージと、少なからず結びついてしまっていることは否めません。創作界隈においても、その傾向は顕著です。


けれどそもそも、
私達はなんのために自分の思いを発信するのか。
創作者はなんのために作品を作るのか。
作品が、つぶやきが、お金になるから?
ファンやフォロワーの期待に応えるため?
同じ趣味趣向の方と繋がりたいから?
認めあい褒め合うと、自己肯定感も上がるし界隈も賑わう?
その前に「ここにいるよ」って自己PRするため?
フォロワー数やいいねRT数を増やすため?
それは誰かに対してマウントをとるため?
それはつまり、承認欲求?

「私 ある日突然書き始めたんです
 ある日突然何も浮かばなくなるかもしれない
 自分がいつ空っぽになるか 自分でも分からないので
 先のことは約束できません」

純名早苗の台詞(「夢の夢こそ」スイート・ソロウ/持田あき)

ある日、衝動的に書き始めた。
自分とは、どのような形をしているのか
なにに渇望して生きているのか
どういうふうに呼吸をすれば楽になるのか
ずっと知らないままだったのに。
文字を書くということを知ってしまった。
ただ浮かび上がる言葉を、イメージを、文章に落とし込む。
命を削るようにしてひとつの物語を完成させる。

それは、創作楽しいとかそういうレベルのものではなくて、まさに、飢えた動物が初めて獲物を捉えたときのような、狂気じみた快感だったようにも思います。

スイート・ソロウVol.4 「夢の夢こそ」/持田あき

「初めてレンズ越しに物語を作った快感はよく覚えてる
 楽しいとか夢中とか そんな可愛いのじゃなくて
 怖いくらいの中毒性があった
 血の味を覚えた動物だね」

都木谷周治の台詞(「夢の夢こそ」スイート・ソロウ/持田あき)

フォロワーもいない。仲間もいない。読者は自分だけ。
名前も知らない誰かの評価なんか一ミリも期待していない中で、自分への期待にだけ応えるものを作る。
それはもう、筆舌に尽くしがたい快感です。

同人であれ商業であれ、「自分が書きたいものを書く」という自分軸は大切ですが、商業創作では、その作品の先に「読者(消費者)」がいることが前提となる。お金になるレベルで、誰かの期待に応えるようなものを、時には自分の意に沿わない形であっても作っていかなければなりません。
もちろん、それをモチベーションとして作品の質を高めていけることこそが「プロ作家」としての大前提…ですが、一切の他者評価にとらわれない自由さというものは、作品の巧拙・優劣なんか関係ない領域であり、もしかすると商業目的では得ることのできない快感の境地なのではないかと思います。

スイート・ソロウVol.4 「夢の夢こそ」/持田あき

紙の上でなら私はやっと息ができる

純名早苗の台詞(「夢の夢こそ」スイート・ソロウ/持田あき)

異様な集中力、他者への関心のなさ、興味の対象の偏狭さなどから「変わり者」「まともじゃない」と言われていた早苗は、中学生のとき初めて衝動的に物語を書いて「やっと息ができる」と、生きていることを実感します。文字を書いていないと死んでしまう。それくらいの欲求。
ひとつ前の「血の味を覚えた動物だね」という台詞は、早苗の脚本を映画にしたいと来訪する映画監督、都木谷周治のものですが、このふたりは性格は正反対ながら創作に対する感性は非常に近いものがあります。10代半ばで創作の狂気を知ってしまったふたり。早苗は人生で初めて、ひとりきりだった夢の世界を同じ感覚で理解し、同じ視点で見つめてくれる人に出会いました。
早苗は『まとも』な感性を持ち合わせない自分、恋すらしたことのないことへの後ろめたさのようなものを感じたりもしていました。けれどその孤独すら、都木谷はまるごと肯定してくれます。

「物を作るには 質のいい孤独が必要なのさ」

都木谷周治の台詞(「夢の夢こそ」スイート・ソロウ/持田あき)

ただの孤独、ではない。
「質のいい孤独」というパワーワード。
それは創作のために、自ら選択する孤独
ひとりでなくては作れなかったものを認めることで、その孤独はきっと上質なものになる。そしてそれを認めるのは、他の誰でもなく、自分自身です。

言葉やイメージというものは静寂の中におりてきます。
自分の内側に目を向けたとき、そこに生まれる世界がある。
人はどこでだって孤独になることができ、自分のつくりだした静寂の海に潜ることができます。

「まともになんかなっちゃ駄目だ さみしさにやられちまう」

都木谷周治の台詞(「夢の夢こそ」スイート・ソロウ/持田あき)

そう都木谷は言い、ひとりきりで見る夢に価値を与えてくれる。


けれどもしも、たくさんの人の感情が騒音のようにひしめき渦巻く「ふつうの世界」で、さみしさにやられてしまいそうになったとき。
自分の存在意義を外側に求めて、自分の外側の評価を気にして、ひとりぼっちであること、正気の沙汰でないことをいけないことのように思って、「まともになる」ことを望んでしまったとき。

それは果たして、自分の衝動を形にするために必要なものなのか、
もはや呼吸に等しいともいえるその狂気を、一度覚えた血の味を忘れて「普通の人」という屍に戻れるのかと
私は、自分に問いかけなければいけない。





TwitterなどのSNSを使い続ける理由は人それぞれだと思いますが、もしこの記事を読んでくださったあなたが、SNSを見ることでさみしさを感じてしまったりすることがあるのなら、自分の心を守るために少し距離をおいてみるのもいいかもしれないと思います。
さみしさにやられてしまわないために、SNSから離れる。
真反対のことをしているようですが、
自ら選択する孤独はきっと上質なものになりうるし、逆にひとりであることの必要性を教えてくれるきっかけになるかもしれません。

…が、そうはいっても離れがたい中毒性があるのがTwitterのすごいところ。自分の興味関心のある情報をいち早く得て、趣味の合う人と交流するという意味では、この巨大コンテンツに匹敵できるものは当分出てこないかもしれないですね。

ただ、作品掲載をメイン用途とするSNSや小説サイト等はともかく、Twitter のしくみは作品を掲載するところとして適切なのか?ということについては、実はずっと疑問をもっていました。

情報が濁流のように流れるタイムラインに、渾身の力を注いだ作品を投稿する。
誰かの日常、原作感想、公式のRT、萌え語り、仕事の愚痴、作品の投稿、萌え語り、リプ、他ジャンルについての語り、興味ないRT、興味ないRT、興味ないRT、感想、誰かの作品投稿、そのRT、日常、日常、誰かの作品投稿、RT、萌え語り、自撮り写真、日常、愚痴……(そして合間に見え隠れするFFからFFへのリプという人間関係)

あれ、自分の作品どこいった???

何日、いや何ヶ月もかけて書いたはずの渾身の作品も、数時間後にはPTLの深海に沈みます。そうならないように、一人でも多くの人に見てもらうために漂流し、見つけた端から好きを送って交流していく。自作品が完成したらすぐUPするのではなく、人が増えるタイミングを見計らい、「アクセスが増える時間帯」を選んで、投稿。

そんなことがストレスなく楽しめる、超羨ましいコミュ力・運用力の高い人、もしくはSNS運用を「営業・広報」「スキルアップ」と割り切って意欲的に行える方もたくさんいるとは思いますが、少なくとも私には、そんな運用は無理でした。

あなたがもし創作者で
そうでなくとも、自分の発信する言葉やイメージを大切にされている人で
もしかすると時折、さみしさにやられそうになることがあるのなら、
「創作や自己表現」と「名前も知らない誰かとの交流」を同時に求めなくてもいいのかもしれないと、思います。

それは、孤独とまともさを同時に求めるようなものだから。
ものを作ることを大切にするなら、孤独でだって、いい。
「まともな(ように見える)世界」や「普通の(ように見える)価値観」から遠く離れた場所で、雑音のない静寂の中で、自ら選んだ孤独の中でしか生まれない奇跡があっていいと思うのです。
巧拙もない、優劣もない、
誰も知らないあなたの世界に沈んでいても、大丈夫。



東京から、3時間10分の距離。
この、超エモい距離感の小さな街にいたからこそ生まれる悲傷を抱いて
今日もまた新しい物語の中へ。

この記事が参加している募集