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ごっこ

小さい頃から、ごっこ遊びが大好きだった。お母さんごっこ、お姫様ごっこ、モンチッチやりかちゃんの病院ごっこ、馬車ごっこ(この辺からマニアックになってくる)、魔女ごっこ、戦いごっこ。妹が5歳年下だったので、赤ちゃんという役にして、だいぶん遊んだ。その後は、カセットテープレコーダーに向かって、ラジオDJごっこ、アンケートあそびなどなど。そして、彼女が大きくなってきて、一緒にごっこなどしてくれなくなっても、高校性くらいまで、なにかといえば、ごっこ、すなわち「設定」あそびをし続けていた。

設定する、ということは、「〇〇のつもり」という前提を決めて、それに沿って役柄やそのキャラクター、セリフやストーリーを生み出し、演じること。特に、わが家の低めの2段ベッドを幌馬車に見立てて、猟をしながら、のんびりとごはんを作って、赤ちゃんの世話をして、というところから、敵が攻めてきて戦いになる、という激しいクライマックスまで、すっかりとその世界に入ってしまうのが楽しくて、何度でもやっていた。

道具や衣装は、家にあるモノで賄わねばならないし、見えない敵のイメージも膨らませて、本気で怖がったり、必死で逃げているつもりで鞭をふらねばならない。大真面目に。

さらに、高校、大学、留学中や社会人になってからも、道を歩きながら、電車の中、色々なところで、自分が「〇〇のつもり」をやっていたことも告白しよう。例えば、バレリーナがそれとわからないように他の職業もやっていて、移動中に飛行機の中で、ストレッチをしているなどと。当然、そういう場合は、歩き方や、ちょっと首をまわしたり、脚を伸ばしてみるだけでも、それとなくバレリーナなんです、っぽくやるわけだ。

一番最近、それが役に立ったのは、クアラルンプールのど真ん中、ブキッビンタン(夜の一人歩きはかなりデンジェラス)で夕食後、ご一緒した方をお見送りして、Grab(ライドシェア)を呼ぶにも、来ず、流しのタクシーも来ず。予約してあったAirbnbが入っているタイムズスクエアまで歩いていくしかない、となったとき。その道は、人もまばらで、薄暗い。向こうの方の角に立っている人は、かなり怪しく前後に揺れている。さてと、どうする?設定「自分がもっと気が狂っていてヤバいヤツ」になる。どんな動きをしながら移動したかは、ご想像に任せるが、少なくとも、誰一人として私の側には寄ってこなかったので、成功とする。

「設定」に熟練していることは、こんな短期的、直接的、実用的なケースでなくても、もう少し長期的、間接的なことでも活かされる。例えば、この新型コロナウイルスのパンデミックが1年間続き、その後、パンデミックは収束しても、このウイルスは存在し続け、共存していくことになる。これを不可抗力、と思わずに、自分の「設定」とする。すると、まず自動的に、それはどんな世界だ?自分はそこで何をする必要がある?周りには誰がいて、その人たちとはどんな関係で、国と国はどんな関係になっていて、人と人はどうやってやりとりをする、なんてことを考え始め、どんどん広げていく。

これが、なかなかよい。実際は、ごっこなんかではない、恐怖の現実で、深刻な事態に直面しているにも関わらず、冷静に淡々と「やるべきこと」を考えることができるのだ。よし、やってみるか、くらいの心持ちで。

第二の利点は、環境を設定することで、そこに立つ自分の役柄をどれにするかは、自在。すなわち、自分にとっての相手の立場、第三者の立場、色々な人や周りのモノの立場に立って、考えることができる。あくまでも「設定」上で、あちらこちらから考えてみるわけだから、感情的にならずに。

他にも、「設定」には、利点がたくさんあると思っているが、それはまたの機会にして。小さい頃から、ごっこを繰り返すことで、事に当たる際に、パニックにならず、冷静に状況を捉え、やるべきことを考え、自分だけでなく周りの他の立場の人や、物事にとってどういう影響があるかということを、主観だけでなく、客観的に考えることができるようになると思っているのだが、どうだろうか。

という私は、今は「家ねこごっこ」の最中である。かれこれ1カ月間も。ごろごろといつまで寝ていても誰にも咎められない、でも家から出てはいけない、ってどんな感じかな。



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