名字呼び

ちょっとした外科手術のため、お産以来はじめて入院生活を体験した。薄味の病院食、手術室に歩いて入って行った時のドキドキ、瞬速で落ちた全身麻酔、ブロック注射で丸太になり数日間私のものでなくなった脚、面白い患者さんやスタッフさんたちとの出会いなど、書ききれないほどの体験をしたのだが、その中で、記録しておきたかったことは、これだ。

医師はもちろん、看護師さん、助手さんと呼ばれるスタッフ、リハビリの理学療法士さん、清掃の人たち、どなたもこなたも、部屋に入る時、カーテンを開ける前、何か尋ねる時、会話の途中でも、めちゃくちゃ名前を呼ぶ。

○○さ〜ん、お加減どうですか〜?
××さ〜ん、お食事お持ちしました〜、と。それを聴き続けていて、ああ、すべての人に名前があるんだなぁ、とあらためて感心した。それも名字。

実は、昨年の帰国後から地味に通っている、主に高齢者用🙄のスポーツクラブでは、△△さ〜ん、よく頑張って来られましたね!□□さ〜ん、次は5番のところから!と、下の名前(名)で全員呼ばれる。最初は、その幼稚園ムードに違和感ありまくりだったが、だんだんと慣れた。20代のコーチたちの「子」の付かないキラキラネームを気軽に呼べるようにさえなっている私がいる。が、今回はそれとは違う「名字」呼び。

入院中にものすごい頻度で名字で呼ばれ続けてみて、感じたことを記しておきたい。恐らく、以前は、病院に入った途端に、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれ、敬語がぶっ飛んで、「タメグチ」をさらに超えて、子どもをあやす様な話しかけ方をされるようになる、という時代が終焉し、(←色々言われた時代があった)「大人扱い」兼「アットホームな雰囲気でフレンドリー」なところを狙いつつ、「本人確認が大事」となると、あんな感じになるのかなと、まずは考えた。

アメリカ映画などを観る限り、医師と患者の関係でも、John、Maryと、Doctor!と呼ぶとき以外、下の名前呼びが通常のようだが、それとはまったく異なる、姓呼びの世界。日本人にとっては、「名字」こそが名前、人格そのもの、最も尊重されるべきもの、ということを感じた。その「名字」を背負っているものとして、ちゃんとしなくては、というようなリアクションが期待される、というか、自然にそうなるというか、名前に恥じない行動を取らねば、という空気が生まれているのを感じる場面にしばしば出くわした。

「患者」という役者でいると、つらいです~、痛いです~、食べたくないです~と何かと甘えた態度になっているところに、「●●さん」という人格に引き戻されると、大丈夫です、がんばります、自分でできます、という方向にキャラ変するのだ!

そこには、「名を名乗れ」「名に恥じぬ」「名に懸けて」文化の香りが漂っていて、たかが「患者」の私が、点滴を付けながら手術室に向かう際のエレベーターでさえ、サッと入り口付近に乗って、奥へどうぞ!と外来の患者さんにスペースを譲ったり、名前を呼ばれて麻酔から覚めた瞬間も、はいっ、と言って起き上って歩こうとして、あああ、そのまま寝ていてください、運びますからね~と言われたり、必要以上にしっかりした態度を取っていて、一人苦笑。

その後の痛みに対してさえ、「痛かったら我慢しないで言ってくださいね、痛み止めを追加しますから!」と何度言われても、「痛みになんて負けないぞ」と、ギリギリまで様子を見て、与えられたとんぷく薬のみだけで乗り切るぞ、と飲むタイミングを工夫することとアイシングでやり過ごし、傷や骨を早く治すべく、与えられた食事は完食し、牛乳もゴクゴクと飲みきった。

それもこれも、先祖代々の名に恥ずるなく、己に恥ずるなくの精神からだ。と大袈裟のようだが、きっとこの効果を狙って「名字」呼びしているのに違いない、うん、そうだ、とひとり思い込んで納得したのであった。

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