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マスク

街中の人がマスクをしている。あの国にいた時も、この国に帰ってきた後、この町でも、西のあの町でも。南の離島でも。

新しい日常、とやらが不自然的に生み出され、人はマスクをして暮らすことになった。数が足りないうちは、賛否両論だったはずのマスクは、一通り行き渡り、必要に応じて定期的に入手可能になった途端に、国や組織によっては、公的な場での着用が義務付けられた。あんなもの抑制効果など無いのに、と笑っていた国でも、国王から街の人までマスクをしていないとたしなめられる雰囲気になっている。

マスクをすると、人の顔が半分以上見えなくなる。道の反対側から歩いてくる人の顔の表情が半分以上見えないということは、気持ちが悪い。もしかすると、ものすごく不機嫌で今にも通りがかった人に切りつけそうな表情をしているかもしれないし、この暑さに負けてよだれを垂らしながらニタニタしているかもしれない。と、そこまで極端に想像を膨らませないにしても、通りすがりに微笑んで道を譲る「雰囲気」なのか、何気なく距離を取るべく歩く方向を変えるべきなのか。そういうことが予測し難い。

マスクの扱い方にも、「作法」らしきものが生まれてきた。「あごマスク」は、その辺の雑菌が内側について、それが口に着くことになるから良くない、とか、食事の際などに外しても、無造作にポケットに突っこんでおいてまた着けることは止めようと、マスクケースなる商品が売られるようになったり。外側には雑菌がウヨウヨと付着しているのだから、そこに触れないように耳にかけるゴムの部分を摘まんで取り外そうとか。一度外したら同じマスクをもう一度付けてはいけない、というのもあった。どれもこれも、ご尤もだが、ついやってしまっていることばかりのように思う。実際、自分の手のひらに付着している雑菌がどれほどのものかを顕微鏡で見たり、まともに考えてしまうと、なにも出来なくなってしまうということを思い出したりしながら、あの小さな布切れ(紙切れの場合も)1枚に何をそこまで期待して、頼りにしているのだ、可笑しささえ感じてしまう。

万が一、自分が強い感染力を持つ感染症を罹患していた場合に、周りの人への飛沫感染を防ぐという意味では、マスクの一定の効果が認められており、その観点から、マスク着用が義務化されたり、マナー化してきていることも理解できる。さらに、その使用方法、扱い方が正しくないと、効果が期待できないばかりか、却って雑菌や病原菌のコロニーをくっつけて歩きまわることにもなりかねないことも。

誰のために自分はマスクを着けているのか?周りの人に感染させないため?自分自身が感染しないため?その人の家族や自分の家族、大切な人たちが苦しく悲しい思いをしないため。と考えると、やはりあの小さな布切れは、物理的に以上に、精神的にも、雑菌や病原菌ウヨウヨの魔界との結界を為す非常に重要な役割を担っているらしい。

旅館の入り口に、「館内ではマスクをご着用ください」との立札。案内された客室に入った途端にマスクを外して、はあ~、やっと外せた~、と深呼吸。浴衣に着替えて大浴場に向かう時には、またマスクを付けて。入浴中は外して、また付けて部屋に戻り。食事が提供される部屋まではマスク姿。挨拶する女将も配膳の方も、マスク姿。時々、マスクを付けずに廊下を歩いている宿泊客がいると、ハッとしてしまう自分。それが、新しい日常、と言われればそれまでだが、私が今の時点で、非常に不自然で気味の悪い情景だと感じていることは、ここに書いておきたい。

世界中でオカルト映画を地で行っている違和感。マスク星人と化した地球人たちの姿に、マスクの下で苦笑いしながら、未来の地球人が、昔の人ってマスクしないで恥ずかしくなかったのかなあ?やだー、うそー、口とか見せてるのってあり得なくない?と笑い合っている図を想像して、笑えない。




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