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小指のない女の子

村上春樹の小説をはじめて読んだのは、中学2年生の時だったと思う。同じクラスの友達が、ノルウェイの森を貸してくれたのだ。

小学生の頃から、読書はまあ好きな方だったので、年相応の本をいろいろと読んでいたような気がする。続きが気になりすぎて、机の下に隠しながら授業中も読むくらいには、読書が好きな少女だった。あのちょっとしたスリル、今となってはもう味わえないな。先生にはバレてたかもしれないけれど。

中学生が読むには、いささかセックスシーンが多すぎる、赤と緑の表紙の小説を読み終えた、14歳(或いは13歳)のわたしは、その後一週間くらい宙に浮いたような気持ちで過ごした。ラストシーンの静かな衝撃が、頭の中でずっとぐるぐる回り続けていた。

それまでに読んだ本は、それがハッピーであるにしろ、ないにしろ、「おしまい」で締めくくられているか、次へのわくわくを残して「つづく」となっているか、大雑把にいうとラストのページはそういう風に出来ていた。

ところが「ノルウェイの森」は、そのどちらでもなかった。読み終えたのに、この話は終わっていない。どこにも辿り着かないまま、放り出されてしまった。

わたし今どこにいるんだろう?

・・・・・・・

村上春樹の小説について、ずっと分からないなと思いながら読んできた。分からないけれど、テンポのいい文体は読んでいて面白い。そして理解出来ないのに、何かが心に残る。10代の頃によく読んでいたから、尚更。

20代後半になった現在、彼の小説を年代順に読み直してみようと思い立った。きっかけは色々とあるけれど、何より、今は秋なのだ。秋になると、本が読みたくなる。

図書館の文庫本のコーナーで、佐々木マキさんのイラストのデビュー作を探してみたけれど、見つからず、単行本のコーナーに移動した。そこには全集が並んでいて、処女作と2作目が収録されたお目当ての1冊もすぐに見つかった。切手のイラストが可愛い、和田誠さんの装幀がすてきだ。

「風の歌を聴け」は今まで一度も読んだことがない。多分、読んだことがないだろうなと思いながら、ページをめくっていたけれど「多分」が「絶対」に変わったのは、105ページに辿り着いた時。

同じなのだ。誕生日が。左手の小指がない女の子と。

占いとか運命とか、すぐに信じてしまう、割と思い込みの激しい性格をしているので、小説の登場人物と自分の誕生日が同じであれば、確実に運命を感じる。そのことを覚えていないはずがないので、絶対にこの話は初めて読む。ということになる。

ノルウェイの森を読んだ時とは違う種類の、軽い衝撃を受けたまま、最後まで読み終わり、やっぱり分からないな。と思った。分かった方がいいのかと、評論や解説を検索して読んでみたけれど、暗い気持ちになった。そこには死と性について、直接的な言葉で書かれた文章が並んでいた。

隠されているから、読めるのだ。軽いテンポの文体や、洒落たジャズやクラシックや古いロックンロールが、暗い死の匂いを隠している。

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左手の小指が無い女の子と同じように、わたしの身体には欠けている部分がある。それはお腹のあたりにぽっかり空いた穴のようなもので、見た目には分からないけれど、確実に、ある。そしてそれは、わたしの場合、人との関係で埋められるようなものではない。本を読んだり、美しい絵を観たり、音楽を聴いたりすると、一時的に満たされるけれど、時間が経つと、ぽっかりと姿を現し、風に吹かれるのだ。

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村上春樹の小説がよく分からないのは、死も性も、よく分からないからだと思う。

そして、よく分からないまま、それでも読んでしまうのは、仄かな死の匂いを、性の疼きを、感じたいからだと思う。

それを感じることで、生きてる気がするから。

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分からないものを分からないまま、感じることを重視して読む。というのも、ひとつの読書の形だと思うし、今まで村上春樹をそんな風に読んできた。

でも、年代順に読むことで、違った見方が出来るかもしれない。まだ1作目しか読んでいないので、全然浮かんでこないけれど、読み進めていくと、10代の頃にみたのとは違った景色が、広がっていくのではないかと思う。






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