見出し画像

【小説】真夜中の中華食堂で

がらがらというシャッターの音。「空車」の字を赤く光らせ走るタクシー。
猫が身震いをする。
街は、とろんと瞼を閉じ始めている時間だ。

薄手の、でも首のところに上質そうなふわふわの毛のついたグレーのコートを着たママは、両手で自分の身体を抱きすくめる。
「何でもあるようで、何もないのよね。この街は。」
歓楽街って、基本的になんか、そうだよね。
口に出すのが億劫で、心の中でタメ口で同意する。

「いや、何食べたいわけ?言いなさいよ早く!」
肩までの髪をさらりと振って、ふりむきざまに私を見る。
少し離れた先。安っぽい電光掲示板に、でかでかと「中華」とあるのを見て、ブレードランナーのディストピアみたいって思いながら、
「天津飯…食べたいかもしれないです。」
震える小声でそう言った。

ちょうどいいじゃーんとママは言いながら、その中華食堂に入った。
小綺麗な店内。小綺麗さは、時にプレハブ小屋のような安っぽさを醸す。
着ているよれた黒いシャツと同じように、疲れた顔の中年男性が注文を取りに来る。この時間、歓楽街の周縁のようなところで働くひとを、尊敬する。普段、よく会話を交わす、ハードディスク並みの容量の知識を持った教授や先輩たちよりも、だ。
真夜中は、端っくれのホステスでさえ、着飾ってスポットライトを浴びなけりゃ、やってらんない。お客さんを送った帰りに目に映る暗闇が、どこまでも続いていて、私みたいなちっぽけな人間はその闇にディップされて、飲み込まれてしまう感覚。気が滅入ってしまう。ましてや、こんな街で、着飾ることもライトを浴びることもなく頭と身体を動かすなんて、できない。

ママが私をお店終わりのご飯に誘うのは、酔って気が大きくなったか、めったにないが、店の女の子の愚痴を言いたくなったときだ。
だけど、私はそれを、不毛な時間だとまったく思わなかった。
だって、私はこの人が好きだ。
それはあこがれ。でも、なりたい、というのとは違う。
この人みたいに、絶対になれないとわかった上でのイリュージョン的な、あこがれだった。

デザイン性は全くと言っていいほどなく、写真だけがいやにきれいな、昆虫図鑑のようなメニューに目を通す。
その日は二限から五限まで授業を受けて、カツサンドを口に詰め込んで店に出た。なんだか頭がふわふわして、気付くと机の上には天津飯とエビチャーハン、そして大皿の、隣に薄切りトマトでつくったバラが載せられたフカヒレがあった。

「だからさ、あいつも腐らずにやってくれりゃいいんだけどさ。」
今日は、愚痴、の方の日だった。
話題は私より少し年上のお姉さんのことで、てきぱきと店の仕事はできるが、根本的に卓を回すのが下手、そういう人だった。
そこまで考えて、私の思考は少し立ち止まった。
自分が、無意識のうちに彼女の仕事に対して評価を下したことに、少し驚いて。
「あいつ、ダメなんだよね。すぐ依存して、期待させて、いざとなったら受け入れられないから潰しちゃう。」
言っている意味は、ものすごく分かった。だけど、私に何が言えるだろう。
聞いているだけでいいとか、そんな風に割り切ることを、私の自意識は許さなかった。だけど、気の利いた言葉は浮かばずに口にはチャーハンの味が残ったままだった。
「別にさ、お客の一人や二人潰したからって腐んなくていいんだよ。そこがあいつの一番だめなとこ。」
信頼はしてるけどね、とママはしらふの時と変わらない速さでエクスキューズを入れる。

後ろにある、ブラウン管のテレビからは、卑猥な言葉が人工的な高い声で連発される謎のアニメが垂れ流されていて、弱った脳にはなぜかそれが面白く感じて、不意に噴き出してしまった。

「あんたさ、なんかほんと幸せなやつだよね。」
にやっと笑いながら梅酒のロックグラスを置いて、ママはそう言う。
幸薄いやつばっか見てきたからさ、と本当かウソか分からないこともつぶやく。
えっ、と少し驚いた。

お店の女の子が少し贅沢な物を身につけていたり、高級な外食に自分のお金で行った話を店ですると、ママは決まって猫なで声のベイビートークを始める。首を傾け、「おいしかったー?じゃあ、たくさん働かないとね。」とか。
働き始めたばかりの、女の子はそれに少しムッとする。
ママのその言動は、クラブという店の構造上は仕方がない、と私は思っている。
若さには劣るママっていう役職が、店の絶対的な権威に君臨するのは、ソフトパワーが必要なのだ。能力とか包容力とか、あとはお金とか。

ふと気づいたことがある。
私には、そのような声をかけない。私の、本当は雑誌の付録だった黒い革の鞄や、おばあちゃんにもらった真珠のネックレスを見て、さらっと「センスいいじゃん。」と乾いた声で言う。

贔屓とか、特別視とは少し違う。
同じ土俵で、少しは見てくれているのだろうかと。なれない、という憧れは、それ自体がイリュージョンなのか?

そう思って、ふとレジから聞こえた大声に驚いて振り向くと、まさに疲れた顔の男女が、無銭飲食をしようとしているところだった。
夜の、街の闇は、だんだんと薄く、淡く、浅くなっていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?