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【ゆる批評】22歳が考えるフェミニズムと、「公私」の線引きの難しさのお話(その1)

なんだか、タイトルに語弊があるような気がする。
「公私」の線引きって、フェミニズムの領域でよく語られる社会における公私二元論とジェンダー役割の関係のことではなくて、「フェミニズム」を語る人たちの発言、つまり公的な意見と私的な経験の関係性について書こうかなぁという意図です。でも、まずは私たち世代のいちサンプルとしての「私」がどうフェミニズムだとか、性差、そして性差別を意識したかのお話をしたい。

性差の意識

「フェミニズム」に関する意見だとか、論争ってもうあまりにも大きなものになりすぎて手に負えない気がする。
そもそもフェミニズムは、アメリカに端を発する第一次フェミニズムと第二次フェミニズム、日本では70年代のウーマンリブと80年代の男女雇用機会均等法成立などから脈々と語られ、論じられ、運用され。
90年代も中期に入ってから生まれた私にとっては、もう一枚岩では割り切れないどころの話ではない。

もちろん、明確な定義やら歴史やら論者について知ったのは大学でアカデミックなフェミニズム理論に触れてからのことで。それまでの義務教育及び高等学校教育では、ほとんど意識したことってなかったかもしれない。(現在盛んにフェミニズムが議論されるtwitterがまだ黎明期で、自分自身もやっていなかったし、性差問題に触れるようなワイドショーは通学のため見る機会もなかったからか)
ただ、しきりにとある英語の先生が、その人は男性だったけれど、英作文の授業において「人、人間」を表す英語としてmanを使ってはいけない、またその所有格・目的格としてhis, himを使ってはいけないと言われた。今考えると、当然も当然の話なのだが、言われていた当時の私も、そしておそらくその周辺の友人も、その言語の運搬がなぜsexismに繋がるのかいまいちピンときていなかった。
(というか、その先生もsexismになるから、というよりもsexismに敏感な学者が多くいる大学という機関の入試においてそのような表現を使わせたくないという、「受験戦略」としての教育に近かったのだろうと思う。)

性差だとか、sexismだとかを意識した、大学入学以前の記憶は本当にこれしかない。それは偏に、あまりにも幸運なことに私の親族に「女の子やから云々」などと言う人がおらず、また教師も男女をその区別以外の領域で「差別」することはなく、共学校だが男子も女子も仲のいい学校で、また所謂性犯罪なようなことにも巻き込まれたことがなかったことが要因にある。
つまり、比較的ジェンダー区別の持ち込まれない環境にいた。(学校にしても、家庭にしてもこれはかなり特殊だったので、その話はまた別の機会に…。)

インカレサークル

はじめて「性差」を敏感に意識したのは、大学入学後のサークルの新歓活動で、だった。それは、先日東大入学式における上野千鶴子氏による祝辞(controversialなので深入りは少し避けたいけども)においても触れられた「インカレサークル」について。
わたしはたまたま、同じ寮の友達に誘われて行ったスポーツ系サークルの新歓で、その存在を知った。私の大学はとある私立大学だけれど、男子生徒は自校のみ、女子生徒は他の女子大の子で構成されているサークルが存在していて、私たちは男の先輩に勧誘されて「自校の女子」という立場でその新歓に参加した。(別に禁止ではないらしかったので)ここで、大袈裟に書くほどのことでもないのだが、明らかにその「他校の女子大生」達からは冷遇されて、それはなんだか初めは滑稽な感じがした。
自校の男子生徒とは、単位やら授業やらの話で盛り上がる。当然彼女達だって、(真意はよくわからないが)自分よりも「頭のいい」大学の男子生徒と交流を持ちたくて入ったのだからいい気はしない面もあるのかもしれない。そんなわけで、私と友人はなんだか申し訳ないような謎の感情が生まれて結局フェードアウトするのだが。
このとき、はじめて性差による不思議な感情を意識した。
なんだか、女の子同士でヒエラルキーができてないか?
ていうか、これはなんのためのヒエラルキーなんだ?
もし、ここで自校の男子生徒が私たちよりも他校の女子大生と話が盛り上がっていたら彼らは非難の対象だったかもしれないけれど、話は逆だった。
このヒエラルキー構造を社会における女性のヒエラルキーや対立構造にまで拡大解釈しようとは思わないけれど、なんだかその萌芽みたいなものを感じて、はじめて男性と女性の立場の差異を感じた。

アカデミックなフェミニズム理論

さて、社会で実際に「性差」を感じた一方で2年生になってとある先生との出会いでアカデミックの領域におけるフェミニズム理論と触れあった。
その方は、他大学から来られている非常勤の先生で、強い主張とやさしさのある素敵な先生だった。もちろん、その先生が持ってきてくれる文学におけるフェミニズム理論だとかクィア批評も興味深かったが、それよりも。
その先生は常に私たち受講生徒がふだんの教育、アルバイト、そして就職活動の場で何か「女性」というだけで差別を受けたことや、不快に思ったことは無いか?そしてそれに関しては声を上げていいのだ、と指導してくれる先生だった。(扱うトピックがトピックだからか、受講者が全員女子生徒だった。)
そこで、「「見られる」という行為ひとつにしたって、自分が不快だと思うなら、それは被害かもしれないし、とりあえず受け流さずに、きちんとその出来事について考えた方がよい」とその先生は私たちに説いた。これは、ともすると危険思想と見なされるかもしれないけれども、それまで自分がなにか視線の対象になったとして、そのことについて深く掘り下げなかった私(および私たち)にとっては新鮮な視点だった。

このころから、アカデミックな理論についても実際の社会問題についても「性差」を強く意識し始めるのだけれど、ここでひとつtrapのようなものがある。あまりに性別による二元論について考えすぎると、あらゆる政治政策やら読む小説やら情報源としての誰かしらの意見を「性差」を意識せずには見られなくなってしまうのだ。これが、いいことなのか悪いことなのか。はっきりとは言えないが、そもそも性別は男と女だけではないし、全てをその視点から考えようとしてしまうことは少しよくない、と自分でも思ったのだ。

他の領域での性差とは

さて、この時期少し驚いた経験がある。
私は専門領域として人文科学どっぷりだったのだけれど、高校の友人には圧倒的に理系、特に医学部医学科の友人が多かった。
そういう友人とときたま会って、近況報告をする。
すると、総合大学とか人文科学が幅をきかせている教育機関には当たり前にあるような「性差別禁止コンプライアンス」みたいなものが薄いなーと思った。
詳しくは、彼女達のプライバシーもあるので書くことは避けるけれど、活動において男性と触れあわなければならない、とか。
見世物のようなことをさせられる、だとか。
「フェミニズム」、「社会」、「歴史」、そんなような領域を学んでた私にとって彼女達のいる男性ホモソーシャルな社会はかなり驚きに値して、そこは変革が必要なのでは?と思った。これが、はじめて違和感とか謎の感情とか、そういったものを抜きに「性差、による差別」に基づいて何かを是正、改善しなければならないのでは?と思ったはじめてのことだったと思う。

つづきはまた。

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