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【エッセイ】10代、あの映画。

多感で、悪口とか揶揄には敏感で傷つきやすく、なのに人を傷つけることには鈍感でだった時期。
中学・高校時代には、その「感度」が人付き合いの場面ではしばしば悪いほうに働くこともあったけれど、その代わりに、素敵な映画、音楽、小説、漫画。そういうものに対する、感受性もこのころが一番鋭かったんじゃないか、と思う。
そういったものを享受したところで、深い思慮とか考察とか、背後にあるイデオロギーとかそんなものについて思いを巡らせたりはしなかった。
でも、「あこがれる気持ち」とか「魅了されるこころ」とか。
そういうのは、10代。あのときに、勝ることはできない気がする。

小説や漫画は、たぶん書き始めるとキリがなくたらたらと巻き物のようになってしまうので、まずは10代のわたしが強く憧れた、映画について徒然に、主にちょっとフェミニズム的な視点から再考してみる。

ヘアスプレー

この映画を始めて観たのは、国際線の飛行機の中だったと思う。
中学1年生。
中学受験を機に、ダンススクールを辞めてしまったことを後悔した。それくらい、観ているとワクワクが止まらなくて、ダンサブルな音楽がいっぱい。

1960年代を舞台のアメリカ、ボルチモア。ダンスと歌には並々ならぬ自信がありつつ、太った容姿のせいで周囲からは嘲笑されているトレイシーが、ティーン向けのダンス番組に出演することになり、人気者に。ひそかに思いを寄せる美少年のリンクともいいムード。しかし、リンクのガールフレンドのアンバーはトレイシーに嫉妬。その母親で、人種差別主義者のヴェルマはトレイシーのリベラルな思想が気に入らない。トレイシーのテレビ出演と恋を妨害しようとする。

トレイシーのパワフル、ポジティブ!!!思考と、人種差別を打開しようとするトレイシーの正義感。それが、この映画の肝というか、軸。
でも、ちょっと待って。私は意外と、悪役のアンバーとヴェルマが好きだ。

ヴェルマは、1930年代のミス・ボルチモア。ミスコンで優勝したことを今でも誇りに思い、亡き夫の遺産でローカルテレビ番組のスポンサー兼プロデューサーをする現在も、過去の栄光が忘れられず、娘のアンバーにも女王になることを期待する。
悲しいことに、ヴェルマの「美しさ」はステレオタイプ的で、古いものだ。それが仇となり「新しい時代、ニューフロンティア」から取り残されてしまう。
ブロンドに、白い肌、細身の身体、整った鼻梁。(ヴェルマ役のミシェル・ファイファーも、もともとミスコン出身者。)
彼女が行った番組の新しいメンバーのオーディションでも、太ったトレイシーやユダヤ系の鼻の女の子を追い出してしまう。
この映画は、(あっ!ネタバレです。次の段落から読んで!!)番組のミスコン企画で不正を働いたヴェルマがクビになり、アフリカ系少女アイネスが「女王」に選ばれエンディングを迎える。

人種もルックスも関係ない、そういう空気が、ヴェルマの1920~40年代アメリカのロマンチックな少女のイラスト、ピンナップ、セックスシンボル的な「金髪美女崇拝」のステレオタイプを打ち砕いたのだ。
(現実はそんなに単純な話じゃない。)
娘のアンバーも、ブロンド美女二世。
だけど、映画の終わりには、アフリカ系の青年に興味を示していることが示唆される。つまり、娘のアンバーには新時代への適応、という一応の「救済」が与えられて幕を閉じる。

しかし、このようにルッキズムと人種が割と前景化されるために、観ている側は、ヴェルマとアンバーの個人の物語から少し遠ざかってしまう。

今見ると、夫を亡くして細腕一本でテレビ局でやっていくヴェルマと、トレイシーに彼氏をとられてしまうアンバーにも少し同情心が芽生える。いや、アンバーもトレイシーのこといじめてたけどさ、リンクはさ、だめだろ、浮気じゃん…。と改めて見直すと思うんですね。

まあイデオロギー的な部分はおいておいても、ヴェルマとアンバーの衣装はめっちゃかわいいです。当時流行の、ヘアスプレーを思い切り使ったビッグヘアと、フレアスカートの色鮮やかなドレス。頭にミンクのリボン。最高か。

キューティー・ブロンド

はい、愛してやまないこの映画。
原題は、Legally Blonde
(法的、法律に明るいブロンド。邦訳は少し、無理がありますね。)
小学校の頃に、母親が授業で使うから、と観ていたこの映画を一目で気に入った。なにこのキラキラピンク!!!超かわいい。
そう思って見始めたこの映画、ストーリーもサクセス系で超スカッとする。

ロサンゼルスの女子大生エルは、セレブで人気者のクラブの女王。完璧なボーイフレンド、ワーナーにプロポーズされると思い込んで臨んだデートであっさり振られてしまう。政治家を目指す自分にはふさわしくないと。「私、育ちはベルエアよ(LAの高級住宅街)?!」と息巻くエルだったが、ひどく落ち込む。しかし、落ち着いたエルはワーナーの進路であるハーバードのロースクールを目指す。もともと頭の良いエルはなんとか試験に合格し、ハーバードへ。しかし、周囲はブリブリピンクで浮ついた(ように見える)エルには冷たく、ワーナーはなんと、高校時代の地味な彼女とヨリを戻して婚約していた。ロスに帰ろうか…と挫けるエルだったが、ネイリストのポーレットや先輩のエメットの協力を得て立ち直り、次第に法律の、弁護の面白さに気付いていく。

この映画は、まあもちろん元カレを一発見返す気持ちよさもあるんだけれど、裏テーマ的には、ブロンドのピンク大好き女子エルがぐんぐんと成長して法律家になっていく過程を見せることで、「金髪美女=頭が悪い、バカ」っていうような、まあアメリカの映画とかコンテンツ文化の中にやんわりあったステレオタイプを裏切るアイロニー的エンパワーメント作品なわけです。

冒頭で、ワーナーがエルを振る場面に印象的な言葉がある。
「政治家の妻はジャッキーじゃなきゃ。マリリンではね(ダメ)。」
これは、第35代アメリカ大統領、ケネディの配偶者と愛人のことを指している。
本妻のジャクリーン・ケネディは、頭が良く流暢なフランス語で外交でも活躍、育ちがよく知的で洗練されたファッションも注目されたファーストレディー。
対して、愛人はロサンゼルス育ち、女優として「頭の軽い、拝金主義のブロンド女性」をたびたび演じたマリリン・モンロー。

面白いことに、ジャクリーンはブルネット(茶色い髪)、マリリンはブロンド。これと同じように、ワーナーがヨリを戻した「真面目で地味」なヴィヴィアンもブルネットで、エルはブロンド。
ワーナーは、ひとまずブロンドのエルよりも、ブルネットの賢いヴィヴィアンを選ぶのだ。

でも、結末がこの映画のおもしろいところ。(ネタバレです!!注意。)
実は、映画の結末。成績も優秀で、弁護士事務所のインターン生としても活躍したエルは卒業生総代としてスピーチをする。エルは結局、再度告白をしてきた、成績の振るわないワーナーを振る。そしてなんと、ヴィヴィアンもワーナーを振って、エルとは親友になったのだ。
ダメ男は捨てられ、ブルネットとブロンドが連帯する。
これが割と、エンパワーメント的要素。

ちょっと、ジャクリーンとマリリンの話に戻ってみよう。
実は、ジャクリーンは輝かしくファーストレディーの仕事をこなす裏で、ケネディの浮気、横暴に振り回されていた。
一方のマリリン。
実はそのブロンドは染めたもので、そもそもはブルネットなのだ。
そして、マリリンの本来の姿は、「頭の悪い、拝金主義娘」(このマリリンが度々与えられてきたステレオタイプ的な配役は、彼女が吃音で、舌ったらずな話し方なので、よりフィットしていた。)というより複雑な生い立ちから、(たぶんお金よりも)愛情を欲し、内気で神経過敏、真面目だった、とか言われる。(マリリンの死は謎なので、ケネディとの関係が彼女の死に繋がったとはここでは断定しないが。)
史実では、マリリンを嫌い、つっぱねたと言われるジャッキーだが、両者は公のイメージと裏腹に、ケネディ、そして周囲の視線や、イメージに晒されることに苦悩していた。

この二人の和解、そして連帯、それからダメ男(ワーナーひいてはケネディ)への復讐。アイロニカルで、ウィットに富んだサクセスストーリーです。あ、主人公エルのファッション、小物もすごくかわいいよ。続編もあります。

**華麗なるギャツビー **

高校二年のときに、地元のガラッガラの映画館でこの作品を観てから、本格的に文学に興味を持ったのかもしれない。

原作は、F・スコット・フィッツジェラルドの(いろんな意味で)伝説の小説、The Great Gatsby (1925)。

東海岸に越してきたニックは、挫折した小説家で今は証券マン。対岸には、彼のいとこで社交界の華、デイジーとイェール大学時代の同級生のトム夫妻が住んでいた。トムは愛人のマートルに入れ込み、食事時にも電話がかかってくる始末にデイジーは、悩んでいた。ニックの隣の家の主人はギャツビーといい、宮殿のような大豪邸で、夜な夜な盛大なパーティーが催される。大半の客は、パーティーに勝手に来ていたが、ある日ニックはギャツビーじきじきに招待されてパーティーへ。誰もギャツビーの素性は分からなかったが、ニックは彼と対面する。ニックに不自然に親切にするギャツビーは、実はデイジーの過去の大恋愛の相手。デイジーとの再会を望むギャツビーは、ニックの協力を得て再び彼女と恋に落ちる。トムとの結婚に疲れてしまったデイジーもギャツビーと過ごす時間を楽しむが、二人の関係を怪しんだトムはギャツビーの正体を暴こうとする。

まあ、ヘアスプレー然り、キューティーブロンド然り、そしてこの映画も、スイーツ(笑)系女子みたいなのを発揮して、結局きらっきらな衣装とパーティーダンスシーンが最高。(それによってストーリーが軽くなってしまっているとの批判もありますが、こういうキラキラ!セレブ!みたいなイメージが無ければ私みたいなアホはこの映画を見てなかったと思います。)

まあ、この時代は所謂「狂騒の20年代」
人々は世界大戦から復員し、大量消費、好景気、そしてお酒の密造やマフィアの活躍が顕著に見られた、日本でいうとバブル景気みたいなものですかね。(わかりませんが)

そして、この時代の女性の(ファッションのみでなく生活も含めた)スタイルがフラッパ―と呼ばれるもの。実はデイジーのモデルは、原作者の妻ゼルダですが、ゼルダは当時代表的なフラッパ―でした。
それは、快活で、好奇心旺盛、のようなステレオタイプで、ファッションでいえば極限まで身体を細く、というか「平らに」見せるのがトレンド。だから、この時代胸もないほうがオシャレなんです。
くびれラインも全くない、すとん、としたドレスと、短い髪をおでこにはりつけたような、要するにラク~なファッションが正装の流行でした。

生活でいえば、女性でもお酒を飲み、タバコを吸い、避妊具の発明と共に性生活もフリーに。つまり、一見女性からそれまでの社会規範とかファッションの拘束が無くなったように見えるスタイル。

しかしながら、トムの浮気に苦しめられたデイジー、そしてゼルダも「狂騒の20年代」後、精神を病み、死ぬまで病院生活を送りました。

『ギャツビー』の中で、トムが求めた愛人のマートルは、フラッパ―のスキニースタイルとは違い、その後、40年代からまた流行るような豊満で肉感的な女性です。(そもそも、女性のファッションは分かるけど、体型に流行りがあるのはおかしな話ですが。戦時には、豊満な女性のピンナップが売れたとか、そういう感じですね。)

つまり、フラッパーの「解放」は、実際は解放ではなかったし、振り回されて虚無感に浸かり、そういう意味でデイジーはとてもシニカルです。

映画の方を観ると、病んでしまっているのは女性だけじゃないです。
冒頭では、ウォール街の株価大暴落と物語の結末にショックを受けて精神病院にかかる「現在の」ニックが描かれます。
これは、最初にも言いましたが、バブル崩壊後の日本に、割と似ている姿ですよね。

結局、その狂騒は、紛い物でしかなかった、というお話。
それと、オーバーラップするように、デイジーとギャツビーの恋も、退廃的で虚飾…とまでは言いませんが、普通に、キャリー・マリガン可愛いし、ディカプリオカッコいいし、ドレスキレイだし、ビヨンセのクレイジーインラブがジャズ風にアレンジされて使われているので、それだけで見る価値ありますよ。



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