【小説備忘録】ノルウェイの森/1987年

約40年も前に世間の脚光を浴びたこの本を手に取ったのは約4年前、コロナが脚光を浴びる直前のことだった。

当時の私は主人公のワタナベ君とほぼ同い年であった。
ノルウェイの森は映画があったことを知っていたが、それは知っているだけで内容の理解には遠く及んでいなかった。
19歳の私は理系であるにもかかわらず、文学Aの授業を取っており、いくつかの授業の中でいくつかの本に目を通すことになったのだ。
「ノルウェイの森」をその授業で扱うことは無かったが、村上春樹が執筆した作品として「海辺のカフカ」に目を通すことで単位を取得した。

文学Aには知り合いと呼べる人間は1人しかおらず、私は必然的にその女性とよく話すようになった。
小説の中と違って大学の授業を1人で取っている人間というのは馴染みやすいとは言えない人種で、その女性もそれなりに難のある人だった。
だがそれは私にも言えることだった。
村上春樹作品はこれでもかというくらい性行為をする作品が目立つし、海辺のカフカも例に漏れない作品だった。
授業で取り扱った他の作品に直接的な性行為の描写は無いため、猿のような大学生からしたら作品の性行為について話し合うことを避けて通ることはできないだろう。
彼女とそういう話をしている時、私は当時本当に思っていたことを彼女に伝えた。
それはラブホテルという場所が好きではないということだ。
嘘のように思うだろうが、私は当時ノルウェイの森を読んでおらず、別にワタナベに影響されたわけでもなく、本当に心からそう思っていた。
しかもワタナベと同じ理由で、性行為をした翌朝の虚しさが本当に嫌だと彼女に伝えた。
すると彼女は当然のように「それはワタナベと同じだ」と言い、私は「ノルウェイの森」という作品を読むことになる。


私が「ノルウェイの森」をきちんと読み、自分の中に取り込むのはこれを書いている時点で3回目であるが、その度に作品に出会った時のことを思い出す。

生と死の境界で自身の居場所を探し続けるワタナベと直子の関係と、理系キャンパスの文学Aという授業の中にいる私と彼女の関係は同相であるとよく話していた。
彼女は現在も生きているし、特別な病があるわけでは無いが、学生時代の彼女と周囲の世界には薄い膜があるように思えた。
私たちは自分を助けられるのは自分しかいないと信じていたし、そのように行動していたので彼女に深入りすることはしなかった。

冒頭にも書いた通り、「ノルウェイの森」は世に出版されてから40年に近い時間が経過しており、インターネットや現実は劇的な変化を遂げた訳で、今更この作品の感想をネットの海に放り出したとしても俗物にしかなり得ないだろう。
だから私はあくまでも備忘録として自分の中に確かにあった錨の位置をネットの地図に起こすことにした。

彼女とどうなったか、我々がどのような道を辿り、別々の道を歩むことにしたのかを記すことはしないが、あの授業は私にとって、あるいは我々にとって複雑な磁場が発生する森のような場所であった。

ちなみに私の親友は当時ノルウェーに留学していた。
不思議なことは起こりうるが、それは実はなんでも無いことではないだろうか。
こうして関連するような事実を順番に並べていくと奇怪なほど相互に絡み合っているように感じるかもしれないが、実際は同じ時間軸で多くのことが起こっているため、本人たちにその意識が起こりづらいのではないか。
こうして振り返って初めて奇怪だと思うのである。
ワタナベ君も振り返っているからこそあのような表現を取っているが、実際にはドイツ語のテストやレコードのバイト、長沢さんと一緒にひっかけまくった何人もの女の人から直子や緑と全く関係無い何かを得ているはずである。
生きるとはそういう俗物すらも体に取り込むことで上手に呼吸ができるようになると私は思うが、どうだろうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?