思い出の残し方
このnoteは
読書感想文のようなものです。
月に数回、Instagramのストーリーズで、最近読んだ本を紹介しつつ少しだけ感想を書いてまとめているのですが
小さい一画像には書ききれないなと、毎回思うので
noteに書いてみます。
写真家 別所隆弘さんの新著
写真で何かを伝えたい すべての人たちへ
はじめに
届いたその日、夫がテレワークだったので
子供を任せて近所のドトールへ。
普段なら1時間くらいしか滞在しないのですが、珍しく二杯目を頼み
2時間ほど読み進めていました。
自分の経験と重ねながら、または
未知の世界を想像しながら。
座りっぱなしのお尻が痛くなってきたのと、
そろそろ買い物して帰らないとと思い
その日は半分まで読んで帰宅しました。
二日後、育児家事炊事の合間を縫って
どうにか完読しました。
読書感想文の前に
完読
と言いつつも、内容を全て理解できたかと聞かれると
頷けない。
友人には、語彙力があると褒められたことはあるが
全くそんなことがないことがよく実感できた。
そう、こちらの著書には
私が初めて見る単語がたくさん出てくるのだ。
(もちろん、それだけではなく、あらゆる分野の知識が不足しているため理解度が低い気がする)
何度スマホを取り出し検索をかけたか。
カタカナは絶望的。
わかったのはカメラとスマートフォンくらい、なんて。
熟語は、漢字を見てなんんとなく分かるものもあるが
度々スマホで検索をした。
含意、煩悶、諦念、邂逅……。
本新著を読まなければ出会うことのなかった単語たち。
今後の私の人生で使う機会が訪れるかわからない単語たち。
いつかまた会いましょう。それこそ邂逅。
読書感想文
自分が思ったこと、感じたことがあった部分を引用しつつ
感想としていきたい。
思いがけない共感
数々の功績を残されている著者との共通点なんて
ないと思っていたら
まさか3ページ目で、深く共感できる内容が!
最近30になりたての私ですが、これはもう共感しかない。
子供が駆け回るようになったら、自然と筋肉はつくんじゃないかと期待。
合成かどうかなんて
上記は、著者が受けた、著者の作品に対してのコメントだ。
私は、フィクションに見えるならフィクションとして見れば良いし、
写真家の作品に、いちいち「これは合成ですか?」と聞く人々は何を求めているんだろうと思う。
合成じゃなかったら、感嘆し、合成だったら、落胆するのだろうか。
昔、鮮明なリフレクション写真やたくさんの花火が浮かんでいる写真など全て一枚の撮って出しだと思っていた。Photoshopでの加工の仕方を知って、今まで見ていたものは合成だったのか…と少なからずショックは受けた。が、合成の何が悪いのか?
合成したのに合成してないと言ったら、嘘をついたことになるが、それに触れていない、または合成と明言している相手に攻撃的な言葉を向けるのは何の意味があるのか。
今では私は、合成だと知ると、その合成技術に感心し、作り方に興味を持つようになった。
何かに対して攻撃的な人は、
勝手に期待して、勝手に失望しているように思う。
(私も人間関係においてそういう経験がないわけではないので、気持ちは分かる)
作品ではなく、思い出として
私は「バズる」を経験したことはないが、気に入った写真をSNSで投稿するのが何故か勿体無いと感じることがある。そんな私の心情がとても綺麗に説明されているかのようだ。
とっても思い入れのある写真をSNSで投稿しても、それに対して何の思い入れもない他人がイイネをつけたりつけなかったりする。それだけで写真としての価値が上がったり下がったりするわけではないが
他人の評価によって、一喜一憂したくないし、誰かのタイムラインで消費されてしまうことに抵抗があったのかもしれない。
誰から見ても、素晴らしい写真が撮れたら良いと思うし
誰かに見られた時、「なにこれ?」と言われる写真でも、私にその時の記憶が蘇ればそれで良いとも思う。
言葉に現実が近づいていく
著者が初めて写真展に出た時の話。
私も初めて個展をした時を思い出した。やはりテーマや写真展の目的なんて深く考えていなかった。意識したのは、個展を実施するカフェで準備を終えた時だ。
「写真全て飾り終わりました。明日からよろしくお願いします」
とカフェ店主に声をかけると、
「お客さんに説明したいので、展示のテーマや思いなど教えてください」
と言われた。
テーマ!? 思い!?
私は内心焦った。著者がP53に書いているように、「私の好きなもの」くらいの感覚だったからだ。しかしそんなことを言える雰囲気ではなかったため、その場で浮かんだテーマや私の展示に対する思いを伝えた。
「着物の魅力を四季とともに感じてもらいたい」
「見た人にも着物を好きになって欲しい」
「着物を着るきっかけになって欲しい」
結果、その後の活動の軸となったと言っても過言ではない。
いや、少し過言だった。普段から感じていたことを具体的に言葉にした、というところだろうか。
実際に口にしている(書いている)と、実現する可能性がぐっと上がる。
着物を着たことがなかったけど、私の投稿を見て
着物を着たいと思い、実際に着物を着て、私に撮影依頼をくれた人もいる。
「私、フランスとのクオーターなんだ」「実は三つ子なんだ」と言い続けていた高校時代の純日本人で一人っ子だった友人は、その後フランスとのクオーターにも、三つ子にもなれなかったと思うが、私は誰かの着物を着るきっかけを作ることができたのだ。
言っているうちに、本当にそうなることって、本当にある。
わがままが過ぎる
たいした受賞歴もなく、たいしてフォロワーもいない私ですら
撮れ高を気にして、撮る時間を楽しめなかったことがある。
一眼レフを初めて手にした時は、一眼レフを持ってでかけることやシャッターを切ることが既に楽しく愉快だった。数年経ち、自分が撮れるこのくらいのクオリティというのがわかってしまい、安定してしまってから、その日の撮れ高を気にするようになってしまった。
モデルさんとの撮影はそれで良いと思う。
モデルさんもまた撮れ高を意識していると思うからだ。しかし私は友人と遊ぶ日も、撮れ高を気にするようになってしまったのだ。
カメラを手に入れると、どこに出かけるにも、カメラを持っていきたくなっる。友人と遊びにでかけるときも、持っていくと楽しみが倍増し、撮った写真は喜ばれる。良い事づくしだった。
その写真が、その友人から遠方に住む祖父祖母やご両親に行き渡り、また、喜ばれる。その写真が、その友人から恋人に渡り、自分では撮れない恋人の素敵な姿として、また、喜ばれる。
そんな話を聞いて、私も喜ぶ。何の記念日でもない日常写真だが、たくさんの人達が喜んでくれる。写真が叶える素敵な連鎖だと感じた。
少し自信がついてきた頃
友人との外出で、普段行かない場所に行き、普段食べないものを食べ、楽しい時間を共有していた。けれど帰り道、一人になって私は少しガッカリしていた。
予想を越える良い写真が撮れなかったなぁ…と。
そもそもの目的は友人との交流で、写真なんか撮っても撮らなくても良かったのに、そんなガッカリを感じていたのだ。
さらに私はその後友人関係を破綻させる出来事を作ってしまう。
社会人になると、学生時代のように簡単に集まれなくなる中で、久しぶりに会う友人たちと前日の確認の連絡をとっていた。
私は写真を撮る前提で外出しているので、そんなつもりのない友人に
「彩度の高い服着てきて!」
と言った。
ポートレートで、赤や青、黄色のワンピースが乱立するのも周りの景色とのコントラストがつけやすいからだ。そういう人目を引く写真が撮りたかった。
一人の友人は
「できたらね〜(笑)」
と軽く反応した。
私も絶対こうしてね!なんて強気で言ったつもりはなかったし、もし服装で悩んだら是非赤とかで!というくらいの気持ちだったが、
もう一人に
「何でそんなこと指図されないといけないの?」
と言われたのだ。
ごもっともである。悪いのは私。
もし迷ってたら〜なんてのは文字にしていないので、伝わっていない。友人なのに命令されたと感じてもおかしくはないだろう。
そこからの展開は最悪だった。
翌日の会う予定はなくなり、そこから1年近くは絶縁状態になった。
今はその出来事から何年も経っており、学生時代からの友人として変わらずの付き合いがあるが、写真を撮っていなければ
いや
友人との交流の日に撮れ高なんて考えなかったら、起こらなかったアクシデントだと思った。
写真に結びつく
私は花火大会に行った記憶が少ない。
そのためこの素敵な文章に、想像でしか共感ができないが
著者の花火の写真には思い入れがある。
去年の春から冬が始まるまで、私はつわりに苦しまされていた。
一般的につわりが落ち着くとされる時期を過ぎても落ち着かなかった。体調不良が長引いたおかげで、外出がままならず、たくさんのことを諦めた。
自分が出展している写真展にも顔を出せず、せっかく当たったライブにも行けず、仕事で力を入れていた企画も他人任せになってしまった。
この時期は二度と経験したくないネガティヴに包まれていた。親しいモデルさんたちに、体調が落ち着いたら会いましょう!と連絡していたが、もう今年の夏はどこにも撮影に行けないんだろうな…と絶望に近い感情を抱きながら、リビングに飾ってある著者のカレンダーを翌月にめくった。
その瞬間、沈んでいた気持ちが浮き上がったのを今でも覚えている。
見たことのない広大な夜景の中で、鮮やかに咲き乱れる花火。
めくった手を止め、その前に立ち尽くしていたのが何秒かわからない。
別に今年は撮影に行けなくても、来年行けばいいじゃないか。
そう思えるようになるきっかけだった。
それから次のページに行くまでの1ヶ月、カレンダーの花火が視界に入るたびに、頑張ろう、という気持ちになった。
だから、今も別所さんの花火写真を見ると
励まされているような気持ちになる。
おわりに
20半ばくらいから、昔に比べて涙もろくなりました。
家族の話、親子の話、子供の話にはめっぽう弱くなります。
特に自分に子供が産まれてからは、テレビやYouTubeで見る子供の話だけではなく、あらゆるフィクションの親子や子供の話に自分を重ねてしまいがちです。
とあるドラマのCMで見た話。小さい女の子を残して母親が亡くなってしまう。父親は再婚するが、なんとその父親がまた亡くなってしまう。
自分の娘が、そんな目に遭ってしまったら
なんてつらいんだろう、と。
このドラマは見れないな、と思いました。
出産を経験してから、
子供が無事に産まれてくること
日々育っていくこと
そして大人になることが、奇跡に近いと感じるようになりました。
産まれて4ヶ月に満たない我が子の写真は
既に1,000枚を超えています。
全ての写真に、思い入れがあり
その瞬間の、
その前後の出来事が
私の脳裏に刻まれています。
私は自分では記憶力が悪いと思っていますが
友人たちは記憶力良いよねと言います。
私はその理由は写真を撮っているからだと思っています。
写真を撮っていると、写真編集時にその時の出来事を振り返り
その後も定期的に写真を振り返ることがあるからです。
写真を撮ることは、
今を切り取る行為ですが
過去を残し、未来に思い出す時間を作ることに繋がるんだと思います。
我が家の白い壁に並ぶ子供の写真を見ては
写真を撮っていて良かったと
これからもたくさん撮っていきたいと感じます。
多くの人を
感動させられる写真は撮れないけど
身近な人たちの幸せな瞬間にシャッターを切ることはできます。
これが私の思い出の残し方なのかな。
まだまだ私の理解度が低い気がする著書。
ちょっと難しく感じる内容もありますが
思いがけない物語も入っており、
思いがけず涙が滲みました。
これからもふと思い出した時に
ページをめくって
新たな発見ができれば良いと思いました。