完全に正確な議論とは何だろうか

まず最初にタイトルと関係のないことを話しておくと、最近は数学に夢中だったので他のことは後回しになっていました(その一例として、noteも放置していました)。今でもそれはあまり変わりません。なので、この記事以降はまたしばらく放置と言う感じになると思います。


さて、タイトルにある疑問について思ったことを書いておきます。

数学という学問は完全に論理的に正確に展開されるという性格を有しています(タイトルにあるような疑問を掲げていながらこう言い切るのもおかしな話ですが)。

数学における証明を見ると、「完全に正確な議論」というのを、次のようなものだと認識すると思います:

☆「完全に正確な議論とは、真であることを認めた文のリストに属している推論規則を用いて、真であることを認めた文のリストに属する文や定義に機械的に帰着される議論のことである」

さて、上の☆はどれだけ正しいでしょうか。実は、☆のような議論が不可能であることは次のようにして理解できます(Quineの議論、cf.言語哲学大全II 2章2.3節):

(1) 真であることを認めた文からなる有限集合をΓとします。Γにはある種の推論規則を示す文が含まれていると仮定しても良いです(そうでないなら、Γから出発して真な推論を行うことが不可能ですから)。

(2) 推論 P∈Γを任意に選択します。これは「Pの形をした推論はすべて真である」のように読んでも良いです。

(3) Pの形をした推論P_1が真であることを示したい場合、

・P_1はPの形をしている。

・P∈Γである

という二つの事実によって、P_1が真であることを導く推論(この推論をQ(P_1)とします)が正しいことを主張しなくてはいけません。

(4) 推論Q(P_1)はΓに属するでしょうか?これは実に微妙な問題です。もしQ(P_1)がΓに属していたとしても、Pの形をした別の推論P_2について同様の推論Q(P_2)を考えた場合、Q(P_2)がΓに属するかどうかは微妙な問題です。

(5) 実際、Pの形をした推論の集合は任意に大きくできますので、Γが有限集合であるということから、あるPの形をした推論P'についてQ(P')がΓに属しません。

(6) このことは、☆のような議論が不可能であることを示しています。◻︎


さて、これは数学をする人間にとっては結構困った結果のようにも見えます。なぜなら、数学というのは「形式化できること」によって正当性を担保していますから。というわけで、数学人はこのような議論に対して穴を探し始めます。私が出会った反論は2つほどありますので、それを挙げて反論をしてみます。

(A) Γを無限集合にしてはいけないのか?

数学をしている人にとって無限集合は非常に身近な存在ですから、数学の人は無限的対象に手を出すことを躊躇いません。ですが、それは数学が(というよりZFが)無限を正確に扱うことができるように整備されたから、安心して数学的文脈において無限集合を扱うことができるだけであり、今のような「現実的な」ことについて議論している場合に安直に無限集合であることを仮定するのは建設的な態度であるとは思えません。少なくとも、我々人類が死ぬまでに出会う文の数は有限個です。ですのでΓは有限集合としておくのが良いのではないかと思います。

(B) 真であることを確認したい各Q(P_i)ごとにΓをΓ_i=Γ‪⋃‬{Q(P_i)}で置き換えれば良いのではないか?

このような態度は☆に反しますが、それ以外にも微妙な点があり、それは、この置き換えの操作が、「真かどうかわからないが真とみなしたいQがあるときに、ΓをΓ‪⋃‬{Q}で置き換える(つまり、Qを真とみなす)」ということを意味していて、このような立場を認めて良いのか甚だ疑問だということです。もしこれが認められるなら、Γに属する推論に従うことは全く任意になりますから、流石にやばいでしょう。


では上のQuineの議論はどのように解釈すれば良いのでしょうか。

少しだけ私の個人的な考えについてまとめてこのメモ書きを終わります(全体論とかいろいろありますが、私はよくわかっていませんので、感想だけ述べます)。

Quineの議論の根幹をなしているのは、「Γに属する推論に"従うか否か"の判定方法がΓに属しているかどうかわからないため、Γから出発して"機械的に"新たな真理性を生み出すことができない」ということです。

しかしながら、人間は有限個の推論規則と既知の結果を用いていくらでも新しい「真な」推論を生み出すことが可能になっています。

このような「現実」と「Quineの議論」の差は何かというと、「人間が推論をしているか」と「(Γを基礎として)機械的に推論をしているか」の差でしょう。

従って、私は、Quineの議論は「人間には、文構造を大域的に捉える、という種類の言語運用能力が本質的に備わっている」ということを明らかにした議論であると読むこともできると思うのです。

たとえば「4km以上歩いたか、または歩いた距離は4km未満である」という文は、「4km以上歩いた」という文を「A」で置き換えれば、「歩いた距離は4km未満である」が「Aでない」と同値であることから、「Aか、またはAでない」という形式の文であると、我々は認識できます。(B)の意見にあるような操作は、我々の有する「大域的な文構造を認識する能力」を運用した結果得られるものです。

しかし「Γ」しか知らない「機械」がこのような「大域的な文構造の認識」をする手段を有していなければ、その場合には上のQuineの議論は完全に適用可能でしょう(そして(B)の意見はその直後の反論によって完全に退けられるでしょう)。

従って、はじめに戻ると、「完全に正確な議論」というのは、私は、

人間が有する最低限の言語運用能力を前提とした場合に、真であることを認めた文のリストに属している推論規則を用いて、真であることを認めた文のリストに属する文や定義に、人間が有する最低限の言語運用能力を用いて、帰着される議論」

のことではないかと思うのです(人間が有する最低限の言語運用能力とは、文章の大域的な文法構造を認識する能力のことです)。

(数学は完全に機械にもできるのではないかとか、宇宙人も同じように数学をしているとか、そういう意見を私が抱くことがないのは、このような事情によって、数学とは真に「人間的な」活動であると思っているからです)

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