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魔法使い、旅に出る #わたしたちの人生会議(リレー連載)

この記事は、緩和ケア医の西智弘さんが言い出しっぺの、「わたしたちの暮らしにある人生会議」という公募出版イベント(くわしくはこちら)のエキシビジョンとして書かれました。「人生会議って名前は聞いたことがあるけど、どういうことだろう」。お話を書くのは「発信する医師団」のメンバーたち。命をみつめる医師たちの、個人的なお話をリレー形式で連載します。

第一回は、外科医の中山祐次郎です。

魔法使い、旅に出る


お嬢様育ちだった祖母は、日本三大頑固の一つである「肥後もっこす」の祖父と結婚してからずいぶん苦労をしたと聞いた。それでも齢60を過ぎてから近所のステンドグラス教室に通い始め、新しい趣味を楽しんでいた。

色とりどりの薄いガラスをダイヤモンドの粉付きのカッターで切り、小島で一休みする人魚のやわらかな流線の尾びれや、たわわに実ったぶどうの房を作っていく。最初は小さなペンダントのようなものを作っていたが、次第に大きなものを作るようになっていった。居間の電灯の傘や壁にかける鏡など、もはや趣味ではなく「作品」とでも言ったほうがいいようなスケールだ。

まだ学校に上がるか上がらないかの僕には、ざらざらしたガラスが美しい作品に仕上がっていくのを見て、まるで魔法のように思っていた。「ガラスを割らずに細長く一本に切るのが難しいの。これ、中山切りって言われているのよ」そう言う祖母は控えめに笑った。

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彼女はまったくの苦労人で、もともと新聞社勤めだったのに定年後は「発明家」「地震予知研究家」などの肩書を持ちつつ、書いた本の帯には「自慢は精力絶倫」と書き、なぜか伝説的深夜番組「11PM(イレブンピーエム)」でコメンテーターをするという、控え目に言っても変人の夫に振り回されているように思えた。僕が小さい頃、祖父に連れられてなにやら水着のミス・コンテストに行った記憶がある。祖父はどういうわけか、そこで審査員を勤めていた。

それでも、というか、だから、なのかわからないが、祖母はとても優しかった。どれくらい優しいかをうまく表現したいのだが、物書きの自分にでもうまく言えないほど優しい人だった。

例えば毎夏テレビで放映される高校野球では、つねに「負けている方を応援する」、そんな人だった。

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僕が高校生になったころ、祖父は肺炎で他界した。それからしばらくして、祖母は持病の糖尿病と肝硬変を悪くして幾度か入院をした。そののち医学生になった僕を喜んでくれつつも、しばしば入院することが増えていった。

九州の大学に行っていた僕が神奈川の自宅に盆と暮に帰省すると、祖母はベッド上にいることが多くなった。彼女は僕と同じで紫色が好きだったから、紫色の杖を買ってあげたような記憶がある(お金は親からもらって)。

何度目かの入院で、無能な整形外科医の病院で1ヶ月の入院のあいだまったく糖尿病をチェックされず悪くしたのをきっかけに、彼女の調子は一気に悪くなった。

帰省のたびに、僕はベッドの上にいる祖母に会いに行った。たくさんの昔話とともに、僕はこともあろうか先祖の話を聞いていた。僕は祖母の家の跡継ぎとして養子に行っていたから、代々のことを知りたかったのもある。

今思えば、「あなたはもうすぐ死ぬのだから、その前に家のことを教えてよ」と言っているような、とても残酷なことをしてしまった気がする。それでも祖母から聞いた先祖の話を僕は詳細にメモしていった。

あの人は国文学の学者で、あのおじいさんは歴史学者で、などずいぶん学者の多い家系だった。そのなかで、祖母がぼそりと言ったことがある。「私のお葬式は、そんなに大きくなくていいから、あったかいものがいい」。僕は祖母とお葬式の話などしたくなかったから、それ以上尋ねなかった。

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祖母の肝硬変は少しずつ悪くなっていき、次第に一日のうちほとんど寝ている状態になっていったと母から聞いた。いわゆる肝性脳症という、肝臓で解毒されるはずのアンモニアが解毒されず体内で増えた結果、ぼんやりしてしまう状態だ。医学の教科書に「多幸感」とあるように、こんこんと眠り、どこか辛そうな様子はまったくない。

ある意味理想的だ。

いよいよ、という連絡を受けて僕は鹿児島から急いで飛行機に乗った。文字通り、祖母は眠るようにして亡くなっていった。往診医が来てくれてお看取りをした。ゆっくりと夏の夕陽が山際に隠れていくように、愛する人たちに見守られながらの最期だった。彼女が生きてきたその優しさすべてが、最期にお返しをしてくれたみたいだった。

神聖で、それでいて暖かで、まるでお釈迦様の最期のようだと僕は思った。それでも憔悴し悲しみに呑み込まれた祖母の娘二人(つまりは僕の母とその妹)に代わり、僕が葬儀のもろもろを取り決めることになった。孫ではあるが、養子なので長男でもある僕は、その葬儀の喪主でもあった。

さっそく地元の有力な葬儀業者に連絡を取ると、ドライアイスを持ってやってきたのはチョビ髭のうさんくさそうな男だった。祖母の眠る隣の部屋でクリアファイルをめくり、お棺の松竹梅、骨壷の松竹梅、花と祭壇の松竹梅を流れるようにプレゼンしていく。

「みなさん故人をお思いになって、最期は、ということで、こちらをお選びになります」

そう言うと200万円のセットプランを指差した。どうにも嫌になり、見積もりだけしてもらって帰した。どんな式がいいんだろう。こんなことなら嫌でも彼女に希望を聞いておくべきだった。

インターネットで他の業者を検索し、こじんまりとした、しかしなんだか人情味あふれる家族経営の業者を見つけた。すぐに来てもらい、話をしているうちに、僕は

「手作りの式をしたいんです」

と言っていた。

その言葉で、自分はそんなことを思っているのか、と気づいた。それをきっかけにして、おさえきれない気持ちが、しかし自分では気づかない気持ちが噴出した。おばあちゃん。優しい式にするから、あなたの人生のように。

葬儀社はずいぶん融通を利かせてくれた。僕は母にお願いをし、祖母の若い頃から最近のものまで写真を見せてもらった。その中から、恨まれないようなるべく彼女の写りの良いものを選ぶと、同じく孫であるいとこの大学生に写真屋に持っていってもらった。大きく引き伸ばし、額に入れた。

式の前には、どう見てもやり慣れていない司会の小さなおばちゃんと秘密の打ち合わせをした。葬儀の日、僕らはたくさんの額と、彼女が作ったたくさんの「作品」を葬儀場に持ち込んだ。長テーブルをたくさん置いてもらい、ギャラリーのように彼女の写真と「作品」を並べた。

当日、ご近所さんや何人かの方々が弔問に来てくれた。「孫たちが準備したんです」と母は泣きながら説明していた。式が始まった。予想通り、かなりトンチンカンな司会のおばちゃんは、しかし一生懸命荘厳な雰囲気を出そうと頑張ってくれていた。そして焼香の前に、「それでは孫からの手紙をお願いいたします」と言った。

僕といとこが立ち上がる。祖母へ、最後の手紙を読んだ。おばあちゃん、安心してゆっくり眠ってくれ。

こうして彼女は僕らのもとからいなくなった。

あれから十年。僕は元気でやっています。

あなたのひ孫が生まれました。夏生まれの元気な男の子です。

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