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小説を書くのがつらい、書かないのもつらい

先日誕生日を迎え、44歳になった。よく皆が言うことだが、自分が44歳になるなんてまったく想定していなかったし、本当になるとは夢にも思っていなかった。
だが人は生きている限り歳をとる。33歳になり、44歳になり、僕は11年後には55歳になる。33歳になれなかったあの外科同期を思えば、44歳になれなかったあの人を思えば、贅沢なことである。

44歳という年齢が持つイメージは、どんなものだろう。26歳のころ、僕は医者になった。そのまま外科医として18年続けているだろうな、とはなんとなく思っていた。だが、ここまでやり抜いているとは思っても見なかった。もう少しほどほどのところで、まあまあ取り敢えずはやっている、くらいではないかと思っていた。
先日取った資格「ロボット支援手術プロクター」で、ほぼ全ての資格を取り切った。これはロボット手術を40件執刀すれば誰でも貰える、たいしたことのない資格だが、ロボット手術を40件執刀する立場になることが今の日本では容易ではない。おそらくこの資格を持つ同世代外科医は国内で数人だろう。
外科医として、これ以上どうするか、というビジョンはない。日本の外科業界は出世(=教授になったりデカい病院の部長、院長などになること)が医者としての実力と無関係である。大きな医局に入り大変な修行とブラック労働をし、業者に寄り添い製品名を連呼して名を売り、偉い人に気に入られればやっと引っ張り上げられる。
僕はそのライン上にいない。医局に入っていない、腕一本の外科医だ。こういう外科医は、私立の大きなグループ(徳洲会や中央グループ、うちのグループなど)に雇われて信頼を勝ち取り、結果を出してクビにならないようにするか、そうでもない病院で内科も外科もなんでもやる消化器科医として働くか、あとは外科を辞める道しかない。別にどれも正解と思うが、私は手術を続けたい。
幸い今は一つ目の道に乗れているが、いつどうなるかわからない。医局からつよつよに誰かが派遣されてきたら、必ずクビを切られる立場だ。

そういう不安定な浮き草のような立場。それが僕の44歳だった。
同世代で、外科をやめて開業する者が増えてきた。大学病院で戦って勝ち始めた者もちらほら出てきた。

幸い、手術のウデはある。若い頃に頑張ったおかげだ。これをどう使って生存していくか。
こんなことなら、医局に入っておけばよかった、なんて虫のいいことを考える。義務を果たしてもいないのに、権利だけを欲しがっている。大きい組織にそぐわない人間だというのに。

外科医としてのこれからのキャリアは置いておいて、作家キャリアだ。 別にキャリアもクソもなく、書くか書かないか、しかない。つまらないものを2作連続で書いたら退場だ。なにか大きな賞を目指すことも考えないわけではないが、傾向と対策を考えてそれっぽい作品を作っている、唾棄すべきあんな作家には死んでもなりたくない。
作品を作り続けていて、少しずつ仕事の幅を広げていき、賞はなくとも読者さんがいつか思い出すような一場面を書けたら、自分はそれでいいと思っている。

そう言う意味で、小説を書きたい。もっと書きたい。だが、いざ小説を書き始めると苦しい。プロットをガチガチに作り、あとは決めたことを書くだけなのに、それがつらい。なんなんだ一体。意味がわからない。書きたくて、書かねば生きていけなくて、仕方なく書いていたのではなかったか。その精神と、書いていてつらいという感触は同居可能だということか。

缶詰になりたい。ホテルに10日とか幽閉されて、毎日書くしかない生活。そんな日はきっとあと21年は来ないのだろう。いつか、と夢に見る。
竹内まりやは子育てに忙しい中、汚い食卓で夢のような恋の歌を書いたとラジオで言っていた。それだけを励みに、僕は電車で、駅で、スマホを使って小説を書くのだ。

44歳の抱負
今年は自著が5冊(小説3、エッセイ1、医学書1)、共著1冊(小説)、企画協力2冊の合計7冊を出す予定。その結果に一喜一憂しないことが目標。


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