未来の宝を潰す可能性?芸人のネタ見せの是非を問う
現在、筆者がやっている構成作家という職業は以前より認知度が上がってきていると思われるが、実際に何をしている仕事なのかと問われれば、自分でも説明ができない部分もあるくらい不透明なものであり、同じ職業でもやる仕事内容は人によるというのが実状だ。
そんな、自分が何者とは胸を張って言えない曖昧な仕事である構成作家にも1つだけ共通点として「アイデアを出す」という一点は確実な仕事として存在している。
アイデアのない構成作家は、運転免許のないタクシードライバーのようなものである。
内容は人それぞれ多岐に渡る仕事だが、この部分が核であるというのは全員共通と言って差し支えないだろう。
テレビ番組の企画を考えたり、番組の流れや構成案を出したり、芸人のネタ作りを手伝う人もいれば、コメディーの台本を書く人もいる。
アイデアマンとして何かを人に伝えたり文字に落とし込む日々の中に、「ネタ見せ」という仕事を依頼されることがある。
このネタ見せというのは、まだ芽の出ていない若手芸人の考えてきたネタを会議室のような場所や稽古場で実演してもらい、それに対して何かしらのアドバイスなりダメ出しをするというものだ。
シーンとした密室空間で自分1人に向けて全力でネタを披露してくるその様は、側から見れば異様な光景だろう。
そして、ネタが終わるなり「よろしくお願いします!」と、私に意見を求めてくるのだ。
まず、大前提として言っておかなければいけないのだが、今は笑いの教材に溢れかえっている時代である。
漫才もコントもトークもいじり方やいじられ方、バラエティー番組での立ち振る舞いまでもふくめ、全てを簡単にスマホ1つで研究できる環境に全ての人たちが置かれている。
ようは「全然ダメ」という若手など存在していないのが実際のところなのだ。
教材不足だった一昔前ならば「全く話にならない」と若手に一から基礎を叩き込み、アドバイスとダメ出しまみれにすることでネタ見せをしている意味はあったのかもしれない。
いや、その一昔前には簡単にできたアドバイスやダメ出しすらも本当に意味があったのかは分からない。
芸人が勝負する相手はいつでも客席にいる人たちであり、大衆だ。
いくら構成作家という肩書きがあろうと、どんな実績があろうと、1人の人間に向けて見せる芸などこの世に存在しない。
その文脈から考えれば、客前で試す以外評価のしようがないのも1つの事実。
賞レースの予選も、無観客の中でやれば結果は確実に変わる。
客ウケ以上の説得力を持つことなど、よっぽどのことがない限りありえないのだ。
だが、こちらとしてもネタ見せは仕事なので何かしらは言わなければいけない。
ネタが終わる度に「うん。そのままの君でいいよ」と岡本真夜のように言い続けては、「なんじゃコイツ」と思われポンコツ作家の出来上がりなのだ。
結局それっぽいダメ出しを毎回することになり、その度に微妙な気持ちが押し寄せる。
保身のために若手を否定しているようなモヤモヤ感に包まれ、帰り道の足取りは少し重い。
これは他の業種でも当てはまるのかもしれないが、若い子の意見や新人のアイデアなどを無条件に受け入れてはいけないという風潮が日本にはある。(日本だけの風潮かは知らないが)
先輩や立場が上の人は、若い子の出してきたものがどんな内容であっても何かしらの文句や修正点を言わなければいけない。
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