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<閑話休題>天邪鬼と付和雷同

 私は、子供のころから天邪鬼で付和雷同の性格だったから、よく母親や先生に「協調性がない!」、「なぜ、みんなと同じにできないの!」と叱られていた。そのたびに、「みんなって、クラスの何人?何%なの?」という反論をして、「おまえは、本当に屁理屈が多いねえ!」とさらに叱られていた。その、今流行りの軽薄な言葉で言えば(つまり、マスコミに踊らされて使用しているだけで、実際は専門の精神科医でなければ使用する意味がないはずの言葉として)、「アスペルガー」とレッテル貼りをされる対象だった。

 ところで、今年3月上旬のウクライナ戦争開始20日後、ルーマニアから日本行きの航空便が次々と停止する中、様々な障害の数々を苦労して乗り越えた末、ようやく日本に帰ってきてから、もう2ヶ月半が過ぎた(注:5月下旬頃に書いたものです)。ルーマニアを含むEUでは、もう新型コロナウイルス感染に対する正しい理解が定着して、マスク不要の日常生活に戻っているが、日本では、政府がわざわざ指針を出す不要なことをしているのにも関わらず、未だにマスクをする・しないについて、あたかも一国の存亡をかけた重大決断のようにマスコミが煽っている異常さが続いている。もちろん、水際対策と称する令和の時代錯誤の鎖国政策も無意味に継続していて、世界中から非難されている(注:10月上旬時点では、部分的に緩和されています)。

 話が横道にそれた。上記に書いたことは本稿の主題ではない。つまり、長屋のご隠居が、へぼ将棋を眺めながらやる無責任な時事放談のようなものだ。乞御免。

 苦労して日本に帰ってからの1ヶ月は、すべてが新鮮で楽しく、また東京の生活リズムが早すぎることもあって、バタバタしながらあっという間に過ぎてしまった。しかし、このいわば「ハネムーン期間」が過ぎると、今度はそれまで見えていなかった嫌な部分が見えてきて、どうでもよいあら探しが始まる。つまりは「倦怠期」だ。

 2ヶ月経った今は、その倦怠期の終わりに近づいているところだが、生来の天邪鬼体質がむくむくと顔を出している。特に平日の勤め人の姿がまばらな地下鉄車内の光景に、強い違和感を覚えている。簡単に言えば、自分たちと「同じ」定年後の、時間があり余っている老夫婦が多いのだ。
 
 もう、ここから先は私の小説家・物語製作者としてのセンサーが活発化する。彼らの、服装のセンスや座席に座っている姿からは、若い頃の姿や歴史が浮かんでくるのだ。つまり、彼らは日本の「みんな」として、学生時代はおそろいのスウェットを着てデートし、芸能人の突然の引退に激しく驚き、クリスマスには高級レストランのディナー&ホテル宿泊に狂喜し、家族が出来た後は毎年夏休みにハワイへ家族旅行をする。もちろん、週末のディズニーランド行きは恒例行事だし、大阪のユニバーサルスタジオがオープンすれば、真っ先に行く。TVで、「今、こうしたことが人気です」、「街中の人たちは、みんなやっています」という報道通りの生活を送ってきた姿が、私の脳裏に見えてくる。

 つまり、数学で言えば、最大公約数のような人生を送ってきたのだろうと思う。そう、私が子供のころ、親や先生に質問して回答を遮断された「みんな」の意味は、数学でいうところの最大公約数なのだ。

「でも」と私はさらに言う。「僕は僕で、みんなじゃない」。

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<どうでも良い、横道にそれた愚痴話>

 先日、六本木のサントリー美術館に行き、大英博物館から借りた葛飾北斎展を見てきた。そもそも、日比谷線の六本木から美術館のある東京ミッドタウンは、平日でも人が多く、また移動する距離が長くて閉口し、疲れてしまう。さらに、美術館には(かくゆう自分たちも同じ輩だが)、老夫婦がごまんと押し寄せてきて、しかも「みんな」解説のヘッドフォンを聴きながら作品を見ている。それも、展示されているガラスに身体をぴったりと押し付けながら。

 ヨーロッパの美術館では、作品を傷めないためもあって、すぐ近くで見るようにはなっておらず、作品の前1mほどにロープを張って近づけないようにしている。だから、大勢の人が集まっていても、鑑賞者が作品を覆い隠すことはなく、遠目からも良く見えるようになっている。ところが、日本でこうした工夫をするのは、フェルメールやレオナルドのような人気かつ有名な作品の場合だけで、通常の美術館では行っていない。

 このように大勢が作品の前にへばりついている上に、個々の解説が長いため、へばりつく時間が長い。そのため、私たちのような解説を聞かない鑑賞者は、作品をじっくりと鑑賞する余裕もなく、ガラスの前にへばりついている人垣の隙間から、チャンスをうかがいながら、覗き見るのがせいぜいだった。

 ヨーロッパのものがなんでもいいとは思わないが、日本の美術館も、作品の前にへばりつかないような対応を考えて欲しいと思う。

 ところで、敗者復活戦ではないが、たぶん空いていると期待する、すみだ北斎美術館にそのうち行くことにした(注:その後家内が行った感想が「・・・」だったので、現在まで行く気持ちが湧きません)。でも、かつて竹橋の近代美術館は休日でも鑑賞者が少ない、私にとって天国のような憩いの場所だったが、今は平日でも人が多いから、ここも難しいかも知れない。・・・東京は人が多すぎる・・・。
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 だから、今の私は、地下鉄の車内でみかける老夫婦のような行動は極力避けたいと思っている。もともと経済に興味はないから、公立図書館に朝から行って、日経新聞を(株価欄を読むために)奪い合いをする気はないし、時間潰しに山手線を何周もする気はさらさらない。そもそも、余生の限られた時間を使って、勤め人だったときに読めなかった膨大な量の本を読むことや、自分の文学・芸術・哲学の領域の思索を進めること、そしてそうしたことの文章表現をすることが山積している。

 私には、残された時間も体力もないのだ。

 そう思ったら、「他人のことを考えている場合じゃない」と気づいた。私は私の世界に没頭しなければならないのだ。それが、私がこの世に生まれてきた最大の理由なのだから。

 そのうちに掲載する予定だが(注:すでに掲載済みです)、https://note.com/yujikino/n/nd5f83620b40f

21歳のころに読んだゲーテ『ファウスト』を実家から自宅に移動させたとき、多くのページの端が折ってあることに気づいた。私が、当時感情を揺さぶられた言葉がある箇所だった。その中でも、よく利用させてもらっている言葉の一節を、ここでも最後に使わせてもらおう。

 そういう人がわたしは好きです。不可能なことを追う人が。


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