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<書評>『古寺巡礼』

古寺巡礼


『古寺巡礼』 和辻哲郎著 岩波文庫 1979年 初版は1919(大正8)年 1947(昭和22)年再版

 大正7(1918)年に,奈良の古寺と古仏を尋ねた時のエッセイだが,今読んでもまったく古びていない。ついこの間,奈良を周遊してきたようなイメージが湧いてくる。

 私にとって,京都・奈良の神社仏閣を人生で初めて見たのは,中学3年の修学旅行だった。東京駅から初めて新幹線に乗り,沿線から見える機関車や列車の写真を撮っているうちに,あっという間に京都駅に着いた(当時は鉄道ファンだったのです)。その後は,旅行会社のバスで京都から奈良を次々と周遊していった。あまり旅行したことがない当時の私は,京都・奈良についても,東京のような都会をイメージしていたので,特に奈良が長閑な田舎であることを知って,少し驚いた記憶がある。

 その中で,私が一番感動したのは,唐招提寺だった。正確には金堂の列柱が素晴らしかった。遠くから見ても,もちろん美しいが,近くで見たときに,柱の中腹がギリシア仕様(ドリス様式のエンタシス)に似せて膨らみ,さらに長い年月を経た柱の木目が上下にまっすぐ浮き上がっている様に,ひどく感動した。なぜ,ここまで感動したのかは今でもわからないが,その場で柱にしばらくしがみついていたい衝動に襲われたのを記憶している。

 次に感動したのは,銀閣寺(観音殿)だった。消失して再建していることを知っていた以外に,「金」という言葉に「成金おやじ」の安っぽさを感じていたので,最初に見た金閣寺にはまったく感動しなかった。むしろ,蔑むような印象しか残らなかった。

 しかし,次に「金」より格の落ちる「銀」であり,またただ古いだけというイメージしか持っていなかった銀閣寺は,一目見ただけで,ひどく感動した。その古さやたたずまい。そして,建築全体から醸し出される哲学的雰囲気に圧倒された。建築だけで,こんな深い思索を表現できることを,生まれて初めて知ることができた。ここにしばらく籠もって,好きな読書をし,疲れたときに庭を眺めることができたら,どんなに素晴らしいだろうかと思った。

 もし,私に十分な経済的余裕があれば,自宅に観音殿を平屋で建て,庭と池を作り,ここを書斎にして暮らしたい。まるで,鴨長明の「方丈」のような思索の場所になると思う。

 ところで,この『古寺巡礼』も『イタリア巡礼』も,昔学生の頃に読んでいたのを,40年近く経ってから再読したものだ。そして,最初に読んだときと印象がかなり異なっていることに驚いている。もちろん,学生の頃から比べれば,日本やイタリアの古寺や美術に対する教養が深まったことが大きい。さらに,イタリアへ旅行して様々な美術作品を鑑賞し,特にアシジという聖なる土地の空気も吸ってきたことは,相当に影響していると思う。また,現在は,読んでいる途中に,スマホで美術作品や建築物のカラー映像を検索して見られるので,これは非常に参考になった。そうして,学生時代より内容を深く理解できた一方,そこから一番強く感情がわき起こったのは何かと言えば,『古寺巡礼』では,奈良・京都の神社仏閣を1ヶ月くらいかけて,じっくりと見たい。『イタリア古寺巡礼』では,やはり3ヶ月くらいかけて,シチリアを含むイタリア全土の,寺院,博物館,美術館,遺跡を見ながら旅したいという,強い思いだった。

 そういう点では,『古寺巡礼』も『イタリア古寺巡礼』も,まったく古びない優れた旅行ガイドではないかと思っている。

 一方,私の25年にわたる長い海外勤務をまもなく終えるこの時に,『古寺巡礼』を再読することになったのは,たんなる偶然ではなく,必然であったと思う。昔,学徒出陣で戦地に赴く学生達が,その頃絶版になっていた『古寺巡礼』を和辻本人に求めることが多かったと和辻本人が述懐している。日本を離れた異国の土地で,死を迎える覚悟をした学究の徒らが,死地で最後に読みたいと思ったのは,日本と日本文化を融通無碍に慫慂した思考の記録だった。これは,今の私とはベクトルは逆だが,お互いの心境に近いものがあるのではないかと思っている。

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