<閑話休題>清潔(無菌)・無臭症そして水
清潔及び無臭症ともいうべき芸能人の、SNSの投稿が世間を騒がしたことがある。そして、この投稿は差別発言であるとして、その芸能人は所属事務所を解雇されたのだが、その是非について外野の私が参戦するほど、自分は優れた人間だとは思っていないので、さすがにそれはしない。ただ、投稿した内容に「一日に数回シャワーを浴びる」とあったので、「湯水のごとく使える」日本ならではの発想だと思ったのだ。
ここに改めて書くまでもなく、水は貴重な資源である。世界中で水不足が喧伝されている一方、生物種としての人は水がないと生存できない。また、工業生産では水を大量に使用する。さらに、災害等で断水した場合は、シャワーだけでなく水洗トイレが使えないことになる。ある人がイギリスに留学していたとき、下宿先の主人から「シャワーは15分以内に限定」と注意されたそうだ。また、私がロンドンの安宿に宿泊したとき、バスルームの排水管が狭いかまたは詰まっていたのか、シャワーを長く浴びているとすぐに排水が床に溢れてきた。かように、日本人はバスタイムが長くかつ大量の湯水を使用する。
考えてみれば、砂漠のベドウィンやヒマラヤ高地のチベット人なんて、気候が乾燥して汗をかかないためもあり、日本人のように風呂に入らないし、シャワーも使わない。ある人に聞いた話だが、人生で一度も風呂に入ったことのないチベット人を自宅に招待したので、清潔好きかつ風呂好きの日本人としては、その人を風呂に入れてあげた。ところが、季節がちょうど冬だったこともあり、そのチベット人はすぐには風邪をひいてしまったそうだ。たぶん、身体に衣服のようについていた何十年分かの垢が全部流れてしまい、因幡の白兎みたいになったため、体温が急激に下がったのだと思う。
次に、無臭について。昔、あるハリウッドのコメディ映画の中で、金満お嬢様が無臭志向(正確には香水耽溺志向)になっていて、自分が飼っているペットの犬の獣臭を消すために、いつも香水をシュッシュッとふりかけていた上に、何か臭いがするものが現れると、すぐに何にでもまた誰に対してもシュッシュッと香水を浴びせていたが、その姿は偏執狂そのものだった。つまり、自分の周囲にあるものは、無臭あるいは香水の匂いがしないと我慢できない姿を、面白おかしくカリカチュアした映像となっていた。・・・そう、くだんのSNS投稿をした芸能人の姿が、この場面を演じた女優の姿と重なってしまった・・・。
だいたい、「臭いは悪である」と、現在の日本では周知されているようだ。また、無臭にするための各種薬品や薬剤を販売するCMが一日中放映されて、多くの人々を洗脳している。また、清潔志向も同様に徹底していて、無菌状態でないとすぐに発病するような(恐怖)感覚をもたらされている。しかし、臭いと生物とは切り離せないものだ。人の嗅覚は犬などと比べると能力が格段に落ちるが、それは犬たちが人の視覚同様に、臭いによって環境や状況を把握しているからだ。また、もし犬が臭いを発しなくなれば、個体間の識別もできなくなってしまうだろう。
獣臭と聞けば何か嫌なものにしか思えないが、獣=生物は、皆特有の匂いを持っているのが自然であり、それによって生物種や個体を互いに識別したりする。人が好む花々の(良い)匂いもこの獣臭と同様のものだ。さらに、人が食べる料理にしても、もし(良い)匂いのない料理であれば、人の食欲はなくなってしまうことだろう。ことほどさように臭いや匂いというのは、生きることに直結している。
もちろん、「良い匂いは歓迎だが、悪い匂いは排除しなければならないので、シャワーを1日に数回浴びているが、それは他者の感情に配慮したマナーである」という反論があるだろう。しかし、そもそも匂い(臭い)の良い悪いの基準を作るのは難しい。個人差が大きいだけでなく、仮に多数決(どの程度のサンプル数で??)で基準を決めても、絶対にそれから外れる人が沢山出てくる。そして、人間が生物である以上は、匂いや臭いから逃れることはできない。なぜなら、「生きている」からだ。つまり、生命活動とは匂いや臭いを発する活動だからだ。それは人間や生物に限定しない。地球上の全てのものに匂いや臭いがある。それを否定することは、無味無臭の世界を志向することになり、それが実現したら、これほど「味気ない」世界はないものはない。
同様に、極端な無菌志向は、つきつめれば人間が生物でなくなり、ロボットになることまでいってしまう(もちろん、その場合でも「コンピューターウィルス」という新種?が存在するが)。そして、ロボット化が人間だけでなく、地球上の生物全てに遡及すれば、この世から「生物」は絶滅してしまうことになる。もしも、そういう環境を志向したいのであれば、その人は、生物に溢れている=匂いと臭いに溢れている地球ではなく、月などの地球外の場所に行けば良い。そこに生物が存在しなければ、無臭・無菌状態が維持されるから、こうした志向を持つ人にとっては最高の環境と条件が揃っている。
つまり、この世には、人それぞれの志向があり、また雑多な人種や趣味があるのと同様に、個人ごとに異なる志向は他者から認められて当然だ。しかし、自分が認められることの前提として、同様に他者の志向も認めなければならない。自分だけがなんでも主張できる王様で、他は何でも王様の言うとおりにする奴隷ではないのだ。全ての人は王様であるが、また同時に奴隷でもある。そして、相互に認め合うことによって人の社会は成立している。ささいなことを含めて相互に認めあわなくなれば、人の社会は成立しなくなる。それは、昔から「寛容」という言葉で表現されてきた。
また、自己主張する(自分が王様になる)前提として、他者の意見(存在)を尊重しなければならない。他者の存在を認めない(肯定しない)で自己主張だけすることは、「裸の王様」と言われても仕方ないことなのだ。時にはその「裸の王様」は、一日に数回のシャワーを浴び、デオドランド化粧品という「衣装」を身に付けている場合もあるようだが・・・。
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