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<閑話休題・芸術>美食と芸術の関係

 ある人が、「安いラーメンを食べた後の演奏より、高級な寿司を食べた後の演奏の方が、より素晴らしく演奏できたと、多くの音楽関係者がいっている」と述べるのを読んだ。「ふーん、そんなものか・・・」と思ったが、しばらくすると、なにか違うような気がしてきた。

 例えば、おそらく安いラーメンには見向きもせず、普段から高級な寿司を食べているその人にとっては、良い演奏をするためには高級な寿司などを食べなければだめだということになると思うが、それでは、これからチャイコフスキーコンクールに出場しようとする、金持ちとは縁がない貧乏留学生は、音楽以外の別の手段で金を稼いで高級寿司を喰わないかぎりは、良い演奏がけっしてできないことになってしまう。

 これではさすがに、貧乏留学生は浮かばれないだろうし、そもそも海外で日本のような高級寿司店は、ロンドンのような特別な大都会でない限りは見つからない。そして、向上心をもって芸術を志向し、良い芸術作品を残そうとするのであれば、芸術そのものに打ち込むよりも、とにかく金を稼いで高級寿司を喰える身分になることが先決になってしまうことになってしまう。また、高級寿司が良い芸術家となるための必要十分条件であるならば、貧乏人から偉大な芸術家が出現することは皆無だろう。

 ところが実際は、例えばピカソの最良の作品群は、私は「青の時代」だと信じているが、ご承知のとおり、「青の時代」のピカソはまだ売れていない貧乏画家であり、絵の対象にしたのも貧しいサーカス芸人たちであった。つまり、「青の時代」には、高級寿司店的な要素(敢えて、成金趣味と言わせてもらう)は皆無であり、むしろその貧乏さ故に偉大な作品となっているのだ。

 一方、その後ピカソが売れっこの画家となり、大金持ちになった後の作品群からは、「青の時代」を越える優れたものはでてこなかった。また、絵の対象は身近な親しい女性に限定されるようになり、かつての貧しい人たちの心の中まで絵に表現しようという気持ちは吹き飛んでしまった。つまり、ピカソは社会との関係よりも、自分の半径2m以内の快適な金満生活空間をそのまま芸術作品にするようになってしまった。しかし、ピカソの絵を購入するのは皆金持ちだから、このピカソの芸術の変化は、購入する側にとっては特に違和感がなかったのだと思う。そして、ピカソは「高い値段で売れるから、良い作品を創造した」と自信を深めていったのかも知れない。

 この「高級寿司店による良い芸術作品論」を突き詰めれば、例えば、自分は数十万円のブランド物のハンドバックを持っている、数百万円の腕時計をしている、数千万円の車に乗っているというような、自分自身ではなく自分の持ち物に自らの存在価値を依存し、さらに持物の価値を金額でしか確かめられない人格であることを、世間の人に公表していることになると思う。それを一般的には「成金趣味」というのだが、少なくとも芸術と成金趣味とは深い関係性を持たないと私は思っている。

 成金趣味などについて、私は良い・悪いの判断をする立場にないし、その気持ちもない。また、そもそも私とは縁遠く、どうでもよいことだ。本稿の主旨を改めて言えば、私としては、芸術の価値は金額で決まらないということを言いたいのだ。そして、本当に優れた芸術は、実人生で貧乏とまではいわなくとも、様々な経験(もっと言えば苦労だ)をすることによって、磨かれ向上すると思っている。それはまた、芸術を磨くだけでなく、自らの人格も磨くことにつながるものであろう。

 だから、チャイコフスキーコンクールに応募するような貧乏留学生は、パン・チーズ・野菜スープ・テーブルワインの質素な食事に恥じることはない。また、もしも高級寿司店に行けるようなお金を持てたときは、もっと芸術の肥しになり、若い今しかできない別のもの(例えば、コンサート、オペラ、読書、旅行等々)に費やせばよいのだ。

 だいたい、高級なものを食べて美味いという感想は当たり前のことであり、そこから何か新たな発見や驚きはないから、当然文化も芸術も生まれない。むしろ、安いラーメンを食べたときに意外な美味さを発見したことの驚きからこそ、文化や芸術が生まれてくるのだ。だから、文化・芸術のために高級なものを食べなければならないという主張を、多くの人が納得しているような国は、文化的には遥かに遅れた国、もっと言えば、文化や芸術が何んたるかを知らない人たちが多数を占める国と言わざるを得ないのだ。

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