見出し画像

<書評>『The Long Good-Bye 長いお別れ』

『The Long Good-Bye 長いお別れ』 Raimond Chandler レイモンド・チャンドラー  Penguin Books 1959 ペンギンブックス1959年版を Reissued in this edition 2010 2010年に再版

"The Long Good-bye"

 1888年にアメリカのシカゴで生まれたチャンドラーは、幼少時英国に移住したが、その後またアメリカに戻った。彼は20世紀の優れた散文の書き手の一人に挙げられる作家である他、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とする探偵小説で著名であり、多くの作品が繰り返し映画化されている。

 名前がチャンドラーだから、インド系アメリカ人であり、しかもインドでは下層カーストだったことが伺われる(一方名前は「レイモンド」という非インド系となっているので、イギリス人またはアメリカ人として出生したのだろう)。しかし、今やそんな出自とは無関係に、探偵もの、しかもハードボイルドものの作家として、高く評価されている作家だ。(なお、『マルタの鷹』のダッシュール・ハメットも同じタイプだが、不勉強ながらハメット作品は未読なので、よくわからない。)

 この作品を読んでいくと、普通の英語ではないいわゆるアメリカ俗語がたくさん出てくるが、これが意外とわかりやすい。ハリウッド映画の功績だろうか。そして中盤に、マーロウが一仕事終えた後、いつもの事務所での日々を描いた下りがあるが、そこで次々と現れる依頼人の話は、まるで私が主に海外勤務で担当していたときを思い出すような、雑多かつ支離滅裂な、例えば夫婦喧嘩のような依頼事項が描かれている。また、あまりにもどうしようもない案件なので、マーロウが丁寧に依頼を断ると、依頼人は必ず「あなたって、まったく酷い人間ね!」とか、「お前のような奴には、二度と会いたくない!」と捨て台詞を投げつけられている。

 これらを読んでいると、「あっ、これは私がさんざんやってきたのと同じじゃないか!」と思わず同情してしまった。私が対応した案件処理にもおのずと制限がかかられていて、いつも「私は神様でもなんでもないから、なんでもできるわけじゃない」とつぶやいていたが、その時の気持ちを思い出す下りとなった。また、マーロウは離婚案件だけは絶対に受けないという方針を繰り返し、また依頼人に対して説明しているが、そうしたことは、何も私立探偵の世界だけではなく、人生全般でも「正解」だと思う。

(そういえば、海外の勤務地で日曜に事務所内の親睦ゴルフをしていたら、突然携帯電話に日本からかかってきて、「そっち方面に逃げた息子の嫁をすぐに探してくれ!」というのがあったのを思い出した。私は、「この電話だけでどうやって探すの?一体どこを探すの?もし公的機関に依頼するとしたら、その根拠は?そもそも、あなたはどこの誰で、なんでこの携帯電話にわざわざ事務所がやっていない日曜に電話してきたの?」と考えながら、対応していた。)

 話を本作に戻す。ストーリーについて詳細を書いても仕方ない(ネタばれ云々より、特に書く必要がない)ので省くが、主人公のマーロウは、独身で酒好きで、腕っぷしが強く、銃を使い、身の危険に関しては注意深くしている。日々の生活は、事務所での依頼人対応がメインであり、朝食は簡素な自宅で食べるが、昼飯と夕飯は、事務所近くのレストラン(というよりも定食屋)で済ます、典型的なアメリカの独身男性である。また、事務所地区のVictorというバーでギムレットを良く飲んでいる。ギムレットを飲むアメリカ人は少ないと言われ、それだけで英国系の趣味があると見られている。そして、如何にも汗臭く、おしゃれとは無縁で、髭の剃り残しが目立つような、21世紀の日本では「きもい」と多くの女性から言われるタイプである。

 本作は、マーロウとその友人である、富豪の妻を持つ「髪結いの亭主」であり、またギャングとのつながりや隠している過去があるテリー・レノックスとの、「男同士の友情」の物語だ。一方、上述したように、21世紀の日本では絶対にモテないタイプのマーロウは、レノックスの妻の姉(医者の妻であったが、離婚した)リンダと、自宅で一夜の関係を持ち、さらに結婚してくれと言われる(が、さすがに無理があることを伝える)。また、仕事で対応した金持ちの流行作家の妻エイリーン(注:「アイリーン」とする表記が多い)からは、アル中の亭主が昏倒している間に、自分のベッドに誘われたりする(これは、危うくメキシコ人ボーイの邪魔によって避けられる)。

 つまり、金持ちで美人の女二人にモテモテとなるのが、むさくるしく貧相な私立探偵で、しかもマイノリティーであるアイルランド系アメリカ人のフィリップ・マーロウなのである。この辺りは、1950年当時のアメリカの社会事情や、舞台となるアメリカ西海岸のロサンゼルス(ユダヤ人の街ハリウッドを持つ)という地理的条件も影響していると思う。たぶん、ニューヨークやシカゴでは、マーロウのようなタイプは日本と同様にこうならないと思うし、もしなるとすれば、もっとお洒落なタイプだろう。

 ところで、日本の翻訳では清水俊二訳が有名で、たしかに「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」などの名セリフ(というよりも、マーロウの独白)が、いろいろなところでよく引用されている。このセリフに代表されるように、本作にはまるで映画のような会話文が多く登場する他、文章全体がマーロウの視点から見た文章で書かれている。つまり、客観的な叙述はなく、常にマーロウの視点と意見によって物語が展開するのだ。

 その背景には、20世紀に入ってから文学の世界が、例えばジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』のように極めて個人のものに変化したことが背景にあると思う。第三者から見て違う印象となるような場合でも、あくまでも主人公の印象を最後まで維持することが重要なのだ。つまり、「神の視点」=「作家の視点」はそこになく、「作家の視点」=「主人公の視点」だけがある。だから、上述したマーロウを誘った二人の女の気持ちについては、何も書かれていない。マーロウの目に映った女たちのボディランゲージと、彼女たちがマーロウに言ったセリフしかそこにはない。そういう観点では、極めて純文学の作品なのだと思う。

 なお、先に挙げた名セリフの原文を参考までに挙げておく。状況は、マーロウの家に運転手付きの高級車キャデラックで訪ねたきたリンダが、翌日の朝タクシーで去っていった後の、マーロウの気分を表している。なお、前後の状況を理解するために、決めのセリフを含む文章全体を引用した。

The French have a phrase for it. The bastards have a phrase for everything and they are always right.
To say good-bye is to die a little.

 私の訳では、「フランスにはこんなときに良い言葉がある。馬鹿な奴らはなんでも使える言い方を持っていて、それはいつも的を射ている。さよならを言うのは、少しだけ死ぬことさ」

 最後に、『長いお別れ』あるいは『ロンググッドバイ』という表現は、特に日本の歌謡曲(軽音楽、ポピュラーミュージック)の世界を強く刺激したようで、ネットで検索すると、「長いお別れ」、「ロンググッドバイ」という歌が次々と出てくる。そして、原作であるチャンドラーの探偵小説はどこかに忘れ去られてしまい、まるでその曲の歌い手が新たに創造した言葉のようなイメージを振りまいている。

 やっぱり、これはおかしいと思う。そして、そうした歌の世界がチャンドラーの原作からかけ離れた世界であることは良いとしても、どこかにこの世界の名作の書名であることを知ることができる、何かの付票があれば良いと痛感した。でも、きっと無理だろう。もし、若い人に『ロンググッドバイ』と言ったら、「あっ、XXさんの曲、好きなんですか?」と聞かれてしまうのだろう。

 そんなときに、「始まりを知らないことは、何も知らないのと同じ」と言ったら、益々嫌われることだろう。まあ、それも良いさ、ケセラセラだから。

<私が、アマゾンで電子書籍及びペーパーバックを発売中の作品です。宜しくお願いします。それぞれ、凝った内容の短編小説やラジオドラマがあります。>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?