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<閑話休題>ブカレスト闘病記,そして妹の死

 2月に入ってから,微熱が続き体調が良くなかった。まさか自分が新型コロナウイルスに感染するとは思わなかったが,事務所のルーマニア人スタッフから感染させられてしまったようだ。

1.経緯
 職場のルーマニア人女性から新型コロナウイルス感染の報告を受けた後,5日後に微熱が発生。7日後に出張PCR検査で感染確認。同時にインフルエンザAにも感染していることが判明する。
 翌日,同じく出張で血液検査を受けた際に,試験管8本分の血液を早朝から採取したこと及び体調が良くなかったことも影響し,5本まで採血した時に意識を失う。このとき,あの世を垣間見る。強いて言えば,チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」の「花のワルツ」を見ているような,最高に幸せな気分だった。
 その後,微熱と高熱を繰り返し,食事ができなくなる。血中酸素が下がっていなかったので,自宅療養を続けたが,5日後の朝に血中酸素が低下したこともあり,救急車を依頼し,入院した。この日は気温が下がり,朝から雪が散らつく中での,寒々しい入院だった。


 入院後は,毎日検査と薬漬けの状態となった。特に,注射を突然してくるため,まるで拷問を受けているような心理状態になった。一方,酸素マスクを,当初轟音のする機械からつないで口と鼻を覆うものを使用し,次に状態が良くなってからは,小さな酸素ボンベから鼻だけに管を通すものに換えたが,これで血中酸素は改善に向かった。
 酸素吸入で血中酸素を維持していたものの,入院3日目に個室にあるシャワーを浴びた際,酸素マスクを外していたこともあり,意識を失って卒倒する。この際,医師から頭部へのダメージを心配され,入院時に続き2回目のCTスキャンを行った結果,特に問題はなかった。
 その後,日々の点滴,注射,服薬(タミフル)の大量の薬漬け治療により,新型コロナウイルスは陰性となり,またインフルエンザAも収まった。この結果,微熱も収まり,食欲も回復した。


 しかし,入院当初はフルーツやヨーグルトしか食べられなかった後,朝(7:30頃)はパン,チーズ,卵(ないこともあり),昼(12:30頃)はチキン,炒めた野菜(1回だけトマトソースのペンネ),生野菜少し,冷めたスープ,フルーツ,パン,夜(18:00頃)は,チキン(たまに白身魚を炒めたもの),炒めた野菜(1回だけサフランライス),パン,たまにヨーグルトの食事を食べた。これらは,味は酷いものだった上に,毎回チキンと油まみれの野菜で胸焼けが止まらなかったが,自分自身に薬と言い聞かせて,無理して食べた。また,これ以外に食べるものがなかったので,仕方ないこともあった。コーヒーや紅茶は,要求すれば出てくるが,依頼してから15~30分待つのが普通だった。
 こうして必死に食事で体力を整え,一方専門の担当者からの,50%まで低下した肺機能を回復するリハビリに励んだ結果,9日目の夜21時頃,最後の注射を腹部に打った後,退院できた。帰りも,救急車で送ってくれた他,EUの新型コロナウイルス対策ということで,医療費は無料だった。また,退院後1ヶ月間飲み続ける,血液凝固防止薬の処方箋をもらったので,自宅近くの薬局で購入し,毎朝食後に服薬している。


 退院できたときは,生還できたことの喜びとともに,苦痛でしかない入院生活から逃れられた(まるで刑務所で,拷問されていたような気分だった)喜びが大きかった。
 そして,帰宅してからは,入院中ずっと夢想していた,天ぷらそばを妻に作ってもらって食べた。間違いなく,人生最高に美味い天ぷらそばだった。

2.後遺症など
(1)日本でも病院食は不味いと決まっているのだから,それが海外なら,なおさら不味い。毎日,チキンと油まみれの野菜を食べさせられて,チキンは見ただけで気持ち悪くなる気分が続いた。ある日自宅で,白身魚を焼いたものが出た時は,チキンのように見えたものの,「これは魚だ。しかも味付けが違う」と自分に言い聞かせることで,ようやく食べられた程だった。
(2)入院中は,入院後と退院前に加え,毎日のように血液採取された。いくら,ドラキュラの国だからといっても,こういつも採血されたら,血も出なくなる。あるとき,採血用の血管が上手くいかず,腕が注射針の痕で血まみれになっていた。このあたりの乱暴さは,日本にはないものだろう。


(3)退院後の一週間,毎夜悪夢に悩まされた。寝ていると,ここが自宅ではなく病院の寝づらいベッドに代わる。そして,個室のドアが激しくノックされ,医師や看護師の集団が荒々しく入ってくる。そして,よくわからない言葉を私に投げかけ,血圧,体温,血中酸素を計り,点滴用の管から薬を入れ,さらに点滴容器をつなぎ,腹部に注射する。予期しない身体への傷害を受けた気分になる,また,精神的な拷問を受けている気分になる。これには,非常に悩まされたが,時間の経過が全てを解決してくれた。ただし,将来再び入院したときには,復活するかも知れない。
(4)点滴と注射の痕が残る,両腕と腹部に痣ができた。退院後,毎日ニベアを塗ってマッサージを繰り返したら,10日後には痣が消えてきた。また,注射針の痛みも5日くらい継続したが,時間の経過とともに消えた。


(5)長く話すとき,また歩くときに息切れする。さらに,あくびができない。意識して深呼吸すると楽になる。とてもじゃないが,走れない。
(6)血液凝固防止剤の影響か,鼻血が少し出ている。服薬は30日間なので,終了すれば改善すると思う。

3.妹の死
 退院して6日目。日本の姪(妹の次女)から,2歳下の妹が自宅の風呂場で亡くなっているのが発見されたとの連絡が来た。残された83歳の母親のことを思うと,無念さに胸が痛む。そして,同時期に自分も死の淵にあったことから,妹が自分の身代わりになったのではないという考えが否定できないでいる。いくつになっても,身内の死は辛い。
 そして,自分が病み上がりであること(この肺では,航空機の長距離移動に耐えられない),新型コロナウイルス感染防止のため,日本に一時帰国しても14日間隔離されること,さらに,入院で迷惑をかけた職場に対して,さらに長期休暇を申し出づらいことがあるため,妹のために一時帰国することは諦める。3人いる妹の子供たちに後始末を頼んだが,母については,一時帰国できずに側にいてあげられない申し訳なさで一杯だ。


 海外で仕事をするということは,こうしたプライベートな重要事を行えないという不利益がある。もとより覚悟の上だが,現実に直面すると,我が身の情けなさを嘆くばかりだ。
 人生は,無情であり,また無常だ。そして,残された(生き残った)私の使命は,妹の分も長生きすることなのだろう。

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