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仕事がなくなるかも!?ある一言でAIに感じていた不安がスッキリなくなった話

ここ最近AIについて自分なりに調べていました。
AIが5年後10年後の社会とどう関わってくるのか?それにより自分のキャリアはどのように変わりそうか。そういう期待や不安が発端です。

ただ、先日note主催で行われた深津さんのChat GPTについてのセミナー?というか対談的な会を見ていて自分なりに腹落ちするものがあり、自分の中の期待や不安が消化されました。それもあってChat GPTやAIそのものを調べることをスパッとやめました。

なんというか、ざっくりとですが、「Chat GPTを含むAIが想像以上に進化しても自分は大丈夫だな。やっていけるな」と思ったんです。

もともと楽観的な性格ですが、どうしてそう思ったかメモがわりに書きたいと思います。
というのも自分の周りを見ると、AIに対して漠然とした不安を持つ人が少なくないなと。必要以上に慌てなくていいんだな、と思っていただければ。

タイトルを忘れてしまったのですが、先日note主催で行われた深津さんのAIについてのセミナー?というか対談的な会ですが、そこで深津さんがお話しされていたマルセル・デュシャン*の言葉がとても印象的でした。

それは、芸術とは絵が上手いとかそういうことではなくて、絵を描くということを人間が決める、その意思こそが芸術だ、みたいな内容をお話しされていました。

どうしてその一言がすごく腹落ちしたかというと、実際にChat GPTは、意思決定そのものを代替するようなものではなく、意志決定を補助するツールでしかないからです。自分としては意思決定の補助すら怪しいと思ってます。

それが良くわかる記事があったのでご紹介します。
サイバーエージェント内にある、サイバーZに所属する村松さんの記事です。(応援してます!)


読んでいただけると良くわかるのですが、当然ですがChat GPTに意志はないので、物語の軸を描くことができません。

現状では「意志そのもの」をChat GPTは持ち合わせていないので、文中にもある言葉を借りると、全てが「浅い」。
これは制作に関わるすべての人にとって、とても大きい事実のように思います。
自分自身、プロダクトデザイナーとしてUXUIを業務としており、Chat GPTに漠然とした不安も感じてはいましたが、期待も大きかった分、触ってみてがっかりしたポイントでもあります。

何というか、対等の視点や立ち位置に立ててないんですよね。
Chat GPTは裏側では、前の文章に整合性がある文章を、蓄えたデータから参照して文脈として違和感がないように配置するだけらしいので、当たり前といえば当たり前ですね。期待する方が間違ってる。

そいうことが分かっただけでも、自分にとっては調べた価値がありました。
漠然とした不安を抱えている人は、自分のようにAIに対して「過剰でちょとズレた期待」を持っているのかもしれません。

現状、そんな大したものじゃないです。
意志なんかないんですから。人間を代替するなんて全然できないです。
心配する必要なし。


まぁとはいえ、意志を持つようにはなると思います。割と早い段階で。
ただAIが意思決定をするようになったとしても、それはそれでいいと思っていて、そうなって、ようやく対等な相手として相互作用を起こせるんじゃないかなって。

そんな甘いもんじゃないよって思う人もいるかもしれませんが、結局のところ、決めるのは自分だという確固とした自負も持っておけば大丈夫!

それでも不安がある人は周囲の意見に振り回されず、じっくりと調べながら、実際に触ってみるのが一番だと思います。ただのツールなのでうまく関わっていきたいですね。


マルセル・デュシャン(wikiリンク)
便器をアートだと言い張って、紀元前から続いた「技術の発明とインパクト」という芸術の流れを、現代アートの本流である、「考え方の発明とインパクト」という新しい流れに変えるきっかけを作った人。(意訳)


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