駅のホームでゴルフスイングをする人に思うこと

駅で電車を待っていたとき、同じく近くに立っていたオジサンが、おもむろにゴルフのスイング練習を始めた。
うわあこういうオジサンって実在するんだ、テンプレートの都市伝説じゃなかったんだ……と思った。

傘などは持たずシャドーだったので特段の迷惑行為でもなし、ただただ、あまりにもベタなオジサンだった。
オジサンは特に周囲を気にかけることもなく、手首の返し、脇の締め方、などなど入念にフォームの確認をしている。が、真剣であればあるほど、なんというか滑稽度合いが増していることは否めなかった。

それを見た僕は、こういう人にはなりたくないな、と思ったのだった。


ここで言う「こういう人」とは、「人前で恥ずかしい行為をする変な人」という意味ではないのでご理解いただきたい。度し難いのは、その厚顔無恥の発露としての行為が「駅のホームでゴルフスイング」という1点のみなのだ。

無恥かつベタすぎる。どうせ厚顔無恥であるのなら、相応の独自性、独立性を求めたい。それでこそじゃないか。滑稽だなー、の一言で済まされてどうすんねん。厚顔も無恥も、凡百の理を外れていてこそ意義が出る。


仮にくだんのオジサンがシャドーゴルフスイングでなく、何をしていれば、まだ許そうという気になれただろうか。

シャドーボクシングなんかは論外だ。これもまたベタなうえ、ゴルフをさらに上回るイキリ中学生のような痛々しさが乗ってくる。

シャドームエタイ、あるいはシャドーカポエイラ、とかならまだマシだろうか。と思ったが、イメージしてみるとどうにも、独自性うんぬんよりも危険人物の色が強すぎる。

ならばもう少し印象をマイルド目なものにして、シャドー百人一首スイングなんてどうだろう。独創性もあるし、これは良い線行っている気がする。

と思ったが、これはよくよく考えれば、傍目には何をやっているかわからない。ただ一定間隔で腕をスイングする危険人物がそこにいるだけだ。読み札の待機姿勢になっているときは、線路に何やら落として今にも飛び込まんとする人だと思われ、すぐさま駅員に取り押さえられる可能性もある。
意外なところで、少なくとも何をやってるか分かるから危険人物にはならないという、シャドーゴルフスイングおじさんの合理性が浮かび上がってくる。

さらに動作が小さく周囲の迷惑になりにくいもの。とすると、シャドー囲碁だ。これなら、座り込まず立ってさえいれば「ときおり手を少しだけ前に出す人」なので、誰にも咎められない。熟練してくれば、シャドーの中でありありと盤面を展開できるようになるだろう。

達人同士ともなると、シャドーとシャドーの対局ができるに違いない。なにぶんシャドーなのだから現実世界の時間経過にも則せず囚われない。駅のホームで一瞬だけ目が合い、シャドーとシャドーを展開した次の瞬間には、すでに勝負は決しているのだ。

いつもの駅のホーム、変わらぬ日常の風景にこのような闘いが潜んでいたとは思いもしなかった。明日の通勤時、まずは最寄りの駅で、僕も誰かに挑んでみようと思う。

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