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写真エッセイ〜2024年4月〜

歴史を知ることで、いまボクが取り組んでいることが、なんの意味ももたないことに気付いてしまったとき、知らなかったフリをするか、事実と向き合えるかが、大きな分かれ道となる。

1841年に銀塩写真の技術が開発されて以来、たくさんの写真家が写真を撮り、発表し、今でも写真集が読まれるくらい認知されている。

当時より生活は豊かになり、写真に写っている風景は全く異なるけれど、その写真を撮ろうとする人間の心にはそれほど大きな変化はないと思っている。当時も今も、争いは無くなっていないし、言語は今でも読めるのだから新しい単語は増えているだろうけど、タイムスリップしたとしても同じ言語であれば、あまり苦労することなく生活できるはずだ。

東京にある「book obscure」には、とんでもなく写真集を愛するお方が店主を務める本屋さんがある。まだ一度も訪れたことはないけど、YouTubeやInstagramで写真集を読み解いている動画を何度も聴いたおかげで、実際にお会いしてお話したことがあるような感覚になっている。不思議な時代になった。

YouTubeでライブ配信されている「book obscuLAB」では所長も務められていて、先日公開された写真集研究の動画は、写真や写真家の歴史、背景、想いなどを理解できていなければ絶対についていけない内容だった。それでも夢中で見てしまうのだから、ボクも向こう側の世界に興味があるんだと思う。ただ、もし自分で写真史を解釈できるようになったとき、ボクは写真が撮れるのかという不安はある。今でも、写真集やSNSに投稿されている写真を見ると、「あぁ、この感じは昔に○○さんが発表された写真に似てるなぁ」と思うくらいだから。「それでも撮るの?」と自問自答するときがきたら、ボクは一体どう答えるのだろう。

そんな世界を選ばないこともできる。ただそうしてしまうと、これまでのボクを否定することにもなる。すでに何度かそれを経験している。正直今は試行錯誤もできないくらい惰性で撮っていると感じることが多い。もちろん惹かれた瞬間しか撮っていないのだけれど、シャッターを押す回数が極端に減っている。今日なんて2万歩も歩いたのに、22枚しか撮らなかった。

そもそもボクは真似するのが嫌いだ。設計の仕事をするときも、モデルチェンジよりも、0から構想を考える方が楽しい。心身ともにボロボロになってしまうけど、やはりそれでしか得られない達成感がある。写真でもその体験をしたいんだと思う。守破離で表すなら、今のボクの写真は「守」だ。もう嫌になるくらい「守」だ。寝て起きても変わらず「守」だ。修行じゃないから、そんな風に考えることが無意味なのかもしれないが、ショア様の呪縛から解き放たれなければ、ボクは自分の写真を撮っているとは言えない。壁が高すぎて、まるでキルアの実家の門のようで、ボクが一生かけて筋トレしても、その壁の向こう側へ行くことも叶わないくらい、高く重たい壁が目の前にある。壁に背を向けるか、ヘリコプターで飛び越えるか、穴を掘るか真面目に考えなければ、残り時間が少なくなったときに、きっと今日のことを後悔すると思う。壁を飛び越えても、困難が待ち受けている。もしボクが写真家として歴史に名前を刻むのなら、ショア様からの決別も一つの選択肢として考えても良いのかもしれない。どうなるのか全く想像もできないが。

Instagramを始めた頃に、よく友人とインスタグラマーのフィード画面を研究していた。超えるべき目標が明確だった。これからボクが進みたいのは、目標のない道だ。自ら目標を定め、その頂にはボクしか存在しない。呆れて笑ってしまうくらい、夢物語のように感じるし、実現できる見込みなんてこれっぽっちもない。それなのに、考えていると楽しくなってくる。SNSで写真を拝見している人たちも、意識の差はあるだろうけど、それぞれの頂を目指しているんだろうなという独自の世界をつくられている方がたくさんいる。ボクはその刺激を思い出したかのように、まとめて触れたくなることがある。「まだここで立ち止まっているのか?」と自分を鼓舞するために。それじゃダメなことは分かっている。こんなnoteを書いてしまうのも、気持ちを整理しなきゃ、訳がわからなくなるからだ。

少し前に、友人の写真家さんから励ましのお手紙を頂戴した。机の上に並べた好きな本の間に挟んでいる。表現に悩んだときは、そこに書かれた言葉を読むと、ボクはボクで居ていいんだと思わせてくれる。これからボクが歩む道のりにも自信をもてる日は必ずくる。このnoteを読んでくれているかは分からないけれど、あなたの言葉にはとても大きな影響力があって、ボクも救われていることをこの場で伝えさせてください。ありがとうございます。

ここまで写真を1枚も載せていませんでした。挟むと違和感があったから。ショア様の呪縛に悩んだり、雑草を意識し過ぎたり、自分を見失っていると数年後に見返したら思うかもしれない写真たちですが、全てボクが好きだと感じた風景であることだけは自信をもって言えます。あなたの好きも見つけてくださいね。最後まで読んでいただきありがとうございました。

自転車で知らない街を移動したときに見つけた風景。外壁がなく窓の前に並んだ植木鉢に惹かれた。
すりガラスの向こう側に誰か居ると撮りたくなる。人見知りなボクだから、他者との間に存在する壁を可視化したものがすりガラスであり、1枚壁があれば他者との関係性を築きやすいという意識がそうさせるのかもしれない。
大阪湾景を展望台ではなく、堤防まで行って撮った日。近くには留学生が宴会をしていて、彼らの歌声をBGMにボクは陽が沈むまで1人で海と空を眺めていた。
偏頭痛持ちのボクは、疲れで目がチカチカしてしまうことがある。だから車には乗らないようにしている。免許はもっているけど1人で車を運転したことはないスーパーペーパードライバーだ。語呂がこの世の終わりかというくらい酷くてごめんなさい。パースリーなんて言ったらただのゴルフだし、この1文を書いてしまったことにも後悔している。あぁ、大阪湾の波打ち際に打ち上げられたワカメになりたい。
もっと近くにショベルカーが居た気がするけれど、そう感じないのは運転手さんとの心の距離が近かったからかもしれない。どういう意味かボクにも説明できないが、そんな理由じゃなきゃ説明できないことが世の中に溢れている。

1年前の写真エッセイ


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